子は眉を寄せ、不快感を露あらわにした。

    「その日のことをはっきりさせておいたほうがいいんでしょうか」

    草薙は笑いかけた。

    「大層に受け取らないでください。もちろん、はっきりさせていただければ我々としても助かりますが」

    「ちょっと待ってください」

    靖子は草薙たちの位置からは死角になっている壁を見つめた。カレンダーが貼ってあるのだろう。そこに予定表が書いてあるのなら見ておきたかったが、草薙は我慢しておくことにした。

    「十日は朝から仕事で、その後は娘と出かけました」靖子は答えた。

    「どちらにお出かけですか」

    「夜、映画を見に行ったんです。錦糸町の楽天地というところです」

    「お出かけになったのは何時頃ですか。大体で結構です。それから映画のタイトルを教えていただけるとありがたいんですが」

    「六時半頃出かけました。映画のタイトルは――」

    その映画は草薙も知っているものだった。ハリウッド映画の人気シリーズで、現在パート3が公開されている。

    「映画の後は、すぐにお帰りになりましたか」

    「同じビルにあるラーメン屋で食事をして、その後はカラオケに行きました」

    「カラオケ カラオケボックスに」

    「はい。娘にねだられたものですから」

    「ははあよくお二人で行かれるんですか」

    「ひと月か、ふた月に一度ぐらいです」

    「時間はどのぐらい」

    「いつも一時間半ぐらいです。帰りが遅くなりますから」

    「映画を見て、食事をして、カラオケと。すると帰宅されたのは」

    「十一時は過ぎていたと思います。正確には覚えてませんけど」

    草薙は頷いた。しかし何となく釈然としないものを感じていた。その理由については、自分でもよくわからなかった。

    カラオケボックスの店名を確認すると、彼等は礼を述べて部屋を後にした。

    「事件とは関係なさそうですね」二〇四号室の前から離れながら、岸谷が小声でいった。

    「まだなんともいえないな」

    「母娘でカラオケなんて、いいですよね。仲むつまじいって感じがする」岸谷は花岡靖子を疑いたくないようだった。

    階段を一人の男が上がってきた。ずんぐりとした体格の中年男だった。草薙たちは立ち止まって男をやり過ごした。男は二〇三号室の鍵を外し、部屋に入っていった。

    草薙は岸谷と顔を見合わせた後、踵きぴすを返した。

    二〇三号室には石神という表札が出ていた。ドアホンを鳴らすと、先程の男がドアを開けてくれた。コートを脱いだところのようで、セーターにスラックスという出で立ちだった。

    男は無表情で草薙と岸谷の顔を交互に見た。ふつうなら怪訝そうにしたり、警戒の色を見せたりするものだが、それすらも男の顔からは読み取れなかった。そのことが草薙には意外だった。

    「夜分に申し訳ありません。ちょっと御協力願えますか」愛想笑いを浮かべながら草薙は警察手帳を見せた。

    それでも男は相変わらず顔の肉を微動だにさせなかった。草薙は一歩前に出た。

    「数分で結構なんです。少し、お話を伺わせていただきたいんです」

    もしかしたら手帳が見えなかったのかもしれないと思い、彼は改めてそれを男の前にかざした。

    「どういったことですか」男は手帳には見向きもせずに訊いてきた。草薙たちが刑事であることはわかっているようだ。

    草薙は背広の内ポケットから一枚の写真を取り出した。富樫が中古車販売店で働いていた頃の写真だ。

    「これは少し古い写真なんですがね、この人らしき人物を最近見かけませんでしたか」

    男は写真をじっと見つめた後、顔を上げて草薙を見た。

    「知らない人ですね」

    「ええ、それはたぶんそうだと思います。ですから、似た人物を見たとか、そういうことはありませんか」

    「どこでですか」

    「いや、それはたとえば、この付近とかで」

    男は眉を寄せ、もう一度写真に目を落とした。脈はなさそうだなと草薙は思った。

    「わからないなあ」男はいった。「道ですれ違った程度の人の顔は覚えてないですから」

    「そうですか」この男に聞き込みをしたのは間違いだったなと草薙は後悔した。

    「あの、お帰りはいつもこのくらいの時刻ですか」

    「いや、日によってまちまちです。クラブが遅くなることもあるし」

    「クラブ」

    「柔道部の顧問をしているんです。道場の戸締まりは私の仕事ということになってますから」

    「あ、学校の先生をなさってるんですか」

    「ええ、高校の教師です」男は学校名をいった。

    「そうでしたか。それはお疲れのところ申し訳ありませんでした」草薙は頭を下げた。

    その時玄関脇に数学の参考書が積まれているのが目に入った。数学の教師かよ、と思い、ちょっとげんなりした。彼が最も苦手な科目だった。

    「あの、イシガミさんとお読みするんでしょうか。表札を見せていただきましたが」

    「ええ、イシガミです」

    「では石神さん、三月十日はどうでしたか。お帰りになったのは何時頃ですか」

    「三月十日 その日がどうかしたんですか」

    「いや、石神さんには何の関係もありません。ただ、その日の情報を集めておりまして」

    「はあ、そうですか。三月十日ねえ」石神は遠くを見る目をした後、すぐに草薙に視線を戻した。

    「その日はすぐに帰宅したと思いますよ。七時頃には帰ってたんじゃないでしょうか」

    「その時、お隣の様子はどうでしたか」

    「お隣」

    「花岡さんの部屋です」草薙は声を落とした。

    「花岡さんがどうかされたんですか」

    「いえ、まだ何とも。それで情報を集めているわけです」

    石神の顔に何かを推察する表情が浮かんだ。隣の母娘についてあれこれと想像を巡らせ始めたのかもしれない。草薙は室内の様子から、この男は独身だと踏んでいた。

    「よく覚えてませんが、特に変わったことはなかったと思いますよ」石神は答えた。

    「物音がしたとか、話し声が聞こえたとかは」

    「さあ」石神は首を捻った。「印象には残ってませんねえ」

    「そうですか。花岡さんとは親しくしておられるのですか」

    「お隣さんですから、顔を合わせれば挨拶ぐらいはします。まあ、その程度です」

    「わかりました。どうもお疲れのところ、すみませんでした」

    「いえ」石神は頭を下げ、そのままドアの内側に手を伸ばした。そこに郵便受けがあるからだった。草薙は何気なく彼の手元を見て、一瞬目を見張った。郵便物の中に、帝都大学という文字が見えたからだ。

    「あのう」ややためらいながら草薙は訊いた。「先生は帝都大学の御出身ですか」

    「そうですが」石神の細い目が少し大きくなった。やがてすぐに自分が手にしている郵便物に気づいたようだ。「ああ、これですか。学部のb会の会報です。それが何か」

    「いえ、知り合いに帝都大の出身者がいるものですから」

    「はあ、そうですか」

    「どうも失礼しました」草薙は一礼してから部屋を出た。

    「帝都大って、先輩が出たところじゃないですか。どうしてそういわなかったんです」アパートを離れてから岸谷が訊いてきた。

    「いやあ、なんか不愉快そうにされそうでさ。何しろあっちはたぶん理学部だぜ」

    「先輩も理数系コンプレックスですか」岸谷はにやにやした。

    「それを意識させる奴が近くにいるんだよ」草薙は湯川学の顔を思い浮かべていた。

    刑事たちが去ってから十分以上待って、石神は部屋を出た。ちらりと隣の部屋を見る。二〇四号室の窓に明かりが灯っているのを確認して、階段を下りた。

    人目につかない公衆電話のある場所まで、さらに十分近く歩かねばならなかった。彼は携帯電話を持っていたし、それ以前に部屋に固定電話があるのだが、それらは使えないと考えていた。

    歩きながら刑事たちとの会話を反芻はんすうした。連中が自分と事件との関わりに気づくヒントなど一つも与えていない、と彼は確信していた。しかし万一のことがある。警察は死体の処理には男手が必要だと考えるはずだった。花岡母娘のそばにいて、彼女たちのためなら犯罪に手を汚す可能性のある男を見つけだそうと躍起になるだろう。隣に住んでいる、という理由だけから、石神という数学教師に目をつけることも大いに考えられた。

    これからは彼女の部屋に行くことは無論のこと、直接会うことも避けなければと石神は思った。家から電話をしないのも、同じ理由からだ。通話記録から、花岡靖子に頻繁に電話をかけていることが警察に知られるおそれがある。

    べんてん亭は――。

    それについてはまだ結論を出せないでいた。ふつうに考えるならば、当分の間は行かないほうがいい。だが刑事たちはいずれあの弁当屋にも聞き込みに行くだろう。その結果、花岡靖子の隣に住む数学教師が毎日のように買いに来ていたことを、店の人間から聞き出すかもしれない。その場合、事件後から急に来なくなったというほうが不審に思うのではないか。これまでと同じようにしていたほうが怪しまれないのではないか。

    石神はこの問題について、最も論理的な解答を出す自信を持てなかった。べんてん亭へは今まで通りに行きたい、という思いが自分の中にあることを、彼自身が知っていたからだ。なぜならべんてん亭だけが、花岡靖子と彼との唯一の接点だからだ。あの弁当屋へ行かなければ、彼は彼女とは会えない。

    目的の公衆電話に辿り着いた。テレホンカードをさしこんだ。同僚教師の赤ん坊の写真が印刷されたカードだ。

    かけたのは花岡靖子の携帯電話の番号だった。家の電話だと警察に盗聴器を仕掛けられているおそれがあると考えたのだ。民間人に対して盗聴はしないと警察はいっているが、彼は信用していなかった。

    「はい」靖子の声が聞こえた。石神から連絡する場合には公衆電話を使うことは、以前に話してある。

    「石神です」

    「あ、はい」

    「さっき、うちに刑事が来ました。そちらにも行ったと思いますが」

    「ええ、ついさっき」

    「どんなことを訊いてきましたか」

    靖子が語る内容を、石神は頭の中で整理し、分析し、記憶していった。どうやら警察は、現段階では格別に靖子を疑っているというわけでもなさそうだ。アリバイを確かめたのは単なる手続きだろう。手の空いている捜査員がいれば裏を取る、といった程度か。

    だが富樫の足取りが明らかになり、靖子に会いにきたことが判明すれば、刑事たちは目の色を変えて彼女に襲いかかるだろう。まずは彼女の、最近は富樫とは会っていないという供述について追及してくるはずだ。それについての防御は、すでに彼女に教えてある。

    「お嬢さんは刑事に会いましたか」

    「いえ、美里は奥の部屋にいました」

    「そうですか。でもいずれはお嬢さんからも話を聞こうとするはずです。その場合の対処については、もう話してありますね」

    「はい。よくいって聞かせました。本人も大丈夫だといっています」

    「しつこいようですが、芝居をする必要はありません。訊かれたことだけに機械的に答えていればいいのです」

    「はい、娘にも伝えておきます」

    「それから映画の半券は刑事に見せましたか」

    「いえ、今日は見せませんでした。見せろといわれるまで見せなくていい、と石神さんがおっしゃってたものですから」

    「それでいいです。半券はどこに入れてありますか」

    「引き出しの中ですけど」

    「パンフレットの間に挟んでおいてください。映画の半券を大切に保管している人はあまりいません。引き出しの中なんかに入っていたら怪しまれます」

    「わかりました」

    「ところで」石神は唾を飲み込んだ。受話器を握る手に力が入った。「私がよく弁当を買いにくることを、べんてん亭の人たちは知っていますか」

    「えっ」唐突な質問に聞こえたらしく、靖子は言葉を詰まらせた。

    「つまり、あなたの隣に住んでいる男が頻繁に弁当を買いにきていることを、店の人たちはどう思っているか、とお尋ねしているわけです。これは重要なことですから、どうか率直にお答えください」

    「あ、それは、よく来てくださってありがたいと店長もいっていました」

    「私があなたの隣人であることも承知しているのですね」

    「ええあのう、何かまずいことでも」

    「いえ、そのことは私が考えます。あなたはとにかく打ち合わせたとおりに行動してください。わかりましたね」

    「わかりました」

    「ではこれで」石神は受話器を耳から離しかけた。

    「あ、あの、石神さん」靖子が呼びかけてきた。

    「何か」

    「いろいろとありがとうございます。恩に着ます」

    「いやじゃあこれで」石神は電話を切った。

    最後の彼女の一言で、彼の全身の血が騒ぎだした。顔が火照はてり、冷たい風が心地好い。腋の下には汗までかいていた。

    幸福感に包まれながら石神は帰路についた。しかし浮いた気持ちは長続きしなかった。ベんてん亭のことを聞いたからだった。

    彼は刑事に対して一つだけミスをしたことに気づいた。花岡靖子との関係を訊かれた時、挨拶をする程度だと答えたが、彼女の働く店で弁当を買っていることも付け加えるべきだったのだ。

    「花岡靖子のアリバイの裏は取ったのか」草薙と岸谷を席に呼びつけると、間宮は爪を切りながら尋ねた。

    「カラオケボックスでは取れました」草薙が答えた。「顔馴染みらしく、店員が覚えていたんです。記録にも残ってました。九時四十分から一時間半歌っています」

    「その前は」

    「花岡母娘が見た映画は、時間的に考えて、七時ちょうどからの上映だったようです。終わるのが九時十分。その後ラーメン屋に入ったそうですから、話は合います」手帳を見ながら草薙は報告した。

    「話が合うかどうかなんて訊いちゃいない。裏は取れてるのかと訊いてるんだ」

    草薙は手帳を閉じ、肩をすくめた。「取れてません」

    「それでいいと思ってるのか」間宮はじろりと見上げてきた。

    「班長だって知ってるでしょ。映画館やラーメン屋なんてのは、一番裏が取りにくい場所なんですよ」

    草薙がこぼすのを聞きながら、間宮は一枚の名刺を机にほうりだした。クラブ まりあんと印刷されている。場所は錦糸町のようだ。

    「何ですか、これ」

    「靖子が以前働いていた店だ。三月五日、富樫が顔を見せている」

    「殺される五日前ですか」

    「靖子のことをあれこれ訊いて帰ったそうだ。ここまでいえば俺が何をいいたいのか、ぼんくらなおまえでもわかるだろ」間宮は草薙たちの背後を指差した。「さっさと裏を取ってこい。取れないなら、靖子のところへ行け」

    5

    四角い箱に三十センチほどの棒が立っている。その棒に直径数センチの輪が通されていた。その状態は輪投げの玩具に似ている。違うのは、箱からコードが延びていてスイッチがついていることだ。

    「何だろうな、これ」草薙はじろじろ見ながらいった。

    「触らないほうがいいですよ」岸谷が横から注意した。

    「大丈夫だよ。触って危ないものなら、あいつがこんなふうに無造作に置いておくはずがない」草薙はスイッチをぱちんと入れた。すると棒に通されていた輪が、ふわりと浮き上がった。

    おっ、と草薙は一瞬たじろいだ。輪は浮いたまま、ゆらゆらと揺れている。

    「輪を下に押しつけてみろ」後ろから声がした。

    草薙が振り返ると、湯川が本やファイルを抱えて部屋に入ってくるところだった。

    「お帰り。講義だったのか」そういいながら草薙は、いわれたとおりに輪を指先で押し下げた。だがそれから一秒としないうちに手を引っ込めていた。「わっ、あっちっち。熱いじゃないかよ」

    「触って危険なものを無造作に置いておくことはないが、それは触る人間が最低限の理科をマスターしているという条件つきだ」湯川は草薙のところへやってきて、箱のスイッチを切った。「高校の物理レベルの実験器具だぜ、これは」

    「高校じゃ物理は選択しなかったんだよ」草薙は指先に息を吹きかけた。隣では岸谷がくすくすと笑っている。

    「こちらは 見かけない顔だな」湯川が岸谷を見て訊いた。

    岸谷は真顔に戻って立ち上がり、頭を下げた。

    「岸谷です。草薙さんと一緒に仕事をさせていただいております。湯川先生のお噂はいろいろと伺っております。捜査に御協力いただいたことも何度かあるそうで。ガリレオ先生のお名前は一課でも有名です」

    湯川は顔をしかめ、手をひらひらと振った。

    「その呼び方はやめてくれ。大体、好きで協力したわけじゃない。この男の非論理的思考を見るに見かねて口出ししてしまっただけだ。君もこんな男と行動していると、脳みそ硬化症が伝染するぞ」

    噴き出した岸谷を、草薙はじろりと睨みつけた。

    「笑いすぎだよ。――そういうけど湯川、おまえだって結構楽しそうに謎に取り組んでたじゃないか」

    「何が楽しいもんか。君のおかげで論文がちっ