柔らかく、威圧感はない。だが捜査一課にいるということは、それなりに情報収集能力を持っているということだ。相手を怖がらせて吐かせるタイプではなく、さりげなく真実を引き出すタイプなのだろう。郵便物の中から帝都大学の封筒を見つけた観察力も要注意だ。
「ほかには何か訊かれましたか」
「あたしが訊かれたのはそれだけです。でも美里が」
石神は受話器をぎゅっと握りしめた。「彼女のところにも刑事が来たんですか」
「ええ。たった今聞いたんですけど、学校を出たところで話しかけられたそうです。あたしのところに来た二人の刑事だと思います」
「美里ちゃんはそこにいますか」
「はい。ちょっと代わります」
すぐ横にいたらしく、もしもし、という美里の声が聞こえた。
「刑事からはどんなことを訊かれた」
「あの人の写真を見せられて、うちに来なかったかって」
あの人というのは富樫のことだろう。
「来なかった、と答えたんだね」
「うん」
「ほかにはどんなことを」
「映画のこと。映画を見たのは本当に十日だったかって。何か勘違いしてるんじゃないかって。あたし、絶対に十日だったっていいました」
「すると刑事は何といった」
「映画を見たことを、誰かに話したかとか、メールしたかとか」
「君は何と答えた」
「メールはしなかったけど、友達には話したって答えました。そうしたら、その友達の名前を教えてくれないかって」
「教えたのかい」
「ミカのことだけ教えました」
「ミカちゃんというのは、映画のことを十二日に話した友達だったね」
「そうです」
「わかった。それでいいよ。刑事はほかに何か訊いたかい」
「あとは特に大したことは訊かれなかった。学校は楽しいかとか、バドミントンの練習はきついかとか。あの人、どうしてあたしがバドミントン部だってこと知ってるのかな。その時はラケットだって持ってなかったのに」
たぶん部屋に置いてあったのを見たのだろうと石神は推測した。やはりあの刑事の観察力には油断ができない。
「どうでしょうか」電話から聞こえてくる声が靖子のものに変わった。
「問題ありません」石神は声に力を込めた。彼女を安心させるためだった。
「すべて計算通りに進んでいます。これからも刑事は来ると思いますが、私の指示を守っていただければ大丈夫です」
「ありがとうございます。石神さんだけが頼りです」
「がんばってください。あと少しの辛抱です。では、またあした」
電話を切り、テレホンカードを回収しながら、石神は最後の台詞について軽く後悔していた。あと少しの辛抱、というのは無責任すぎた。あと少し、とは具体的にどれほどの期間なのだ。定量的に示せないことはいうべきではない。
ともあれ、計算通りにことが進んでいるのは事実だった。富樫が靖子を探していたことが判明するのは時間の問題だと思っていたし、だからこそアリバイが必要だと判断したのだ。そしてそのアリバイに警察が疑いを持つのも予定通りだ。
美里のところへ刑事が来たというのも予想していたことではある。おそらく刑事たちは、アリバイを崩すには娘を攻めたほうが手っ取り早いと考えているのだろう。それを見越して様々な手は打ってあるが、抜けがないかどうかはもう一度チェックしたほうがいいかもしれない。
そんなことを考えながら石神がアパートに戻ると、部屋の前に一人の男が立っていた。黒い薄手のコートを着た、背の高い男だった。石神の足音を聞いたからか、男は彼のほうに顔を向けていた。眼鏡のレンズが光っていた。
刑事かな、とまず思った。だがすぐに、違う、と思い直した。男の靴は新品同様の美麗さを保っていた。
警戒しながら近づいた時、相手が口を開いた。「石神だろ」
その声に石神は相手の顔を見上げた。その顔には笑みが浮かんでいた。しかもその笑みに見覚えがあった。
石神は大きく息を吸い、目を見開いた。「湯川学か」
二十年以上前の記憶が、みずみずしく蘇ってきた。
6
その日もいつものように教室はがらがらだった。詰めれば百人は入れる部屋だが、座っているのは多く見積もっても二十人といったところだった。しかもその殆どの学生が、出欠を取り終えたら即座に退出できるよう、あるいは自分勝手な内職をできるよう、後方の席に座っていた。
数学科志望の学生は特に少なかった。石神以外には誰もいなかったといってもいい。応用物理学の歴史的背景ばかりを聞かされるその講義は、学生たちには人気がなかった。
石神にしてもその講義にさほど関心はなかったが、いつもの習慣で、最前列の左から二番目の席についていた。どの講義でも彼はその位置か、それに近い場所に着席することにしていた。真ん中に座らないのは、講義を客観的に捉えたいという意識があったからだ。彼は、どんなに優秀な教授でも、いつも正しいことを語るわけではないということを知っていた。
彼は大抵孤独だったが、その日は珍しくすぐ後ろに座った者がいた。しかしそのことについてさほど気には留めなかった。講師が来るまでの間、彼にはやるべきことがあった。ノートを取り出し、ある問題と取り組んでいた。
「君もエルデシュ信者かい」
最初、その声が自分に対して発せられたものだとは石神は気づかなかった。しばらくして顔を上げる気になったのは、エルデシュという名前を口にする人間がいることに興味がわいたからだ。彼は後ろを振り向いた。
髪を肩まで伸ばし、シャツの胸元をはだけた男が頬杖をついていた。首には金色のネックレスをつけていた。時々見かける顔だった。物理学科志望の学生だということは知っていた。
声をかけてきたのは、まさかこの男ではあるまい――石神がそう思った直後、長髪の男は頬杖をしたままいった。「紙と鉛には限界があるぜ。まあトライすることには意味があるかもしれんが」
同じ声だったので、石神は少し驚いた。
「俺が何をしてるのか知ってるのか」
「ちらりと見えた。覗こうと思ったわけじゃない」長髪の男は石神の机を指差した。
石神は自分のノートに目を戻した。数式が書かれているが、それは全体の途中であり、ごく一部にすぎなかった。一目見て、何を解いているのかわかったとすれば、この問題に取り組んだ経験があるということだ。
「おたくもやったことがあるのか」石神は訊いた。
長髪の男はようやく頬杖を外し、苦笑を浮かべた。
「こっちは不必要なことはしない主義なんだ。何しろ、物理学科志望だからな。数学者が作り上げた定理を使わせてもらうだけだ。証明は君たちに任せる」
「でもこいつには興味があるわけか」石神は自分のノートを手にした。
「証明済みだからな。証明されたことは知っておいて損はない」彼は石神の目を見て続けた。「四色問題は証明された。すべての地図は四色で塗り分けられる」
「すべてじゃない」
「そうだった。平面または球面上、という条件つきだったな」
それは数学界において最も有名な問題のひとつだった。平面または球面上のどんな地図も四色で塗り分けられるかどうかというもので、一八七九年にaケーリーによって提出された。塗り分けられることを証明するか、それが不可能な地図を考案すればいいわけだが、解決されるまでに百年近くを要した。証明したのはイリノイ大学のケネスアッベルとウォルフガングハーケンで、ふたりはコンピュータを用い、あらゆる地図が約百五十の基本的な地図のバリエーションでしかないことを確かめ、それらすべてについて四色で塗り分けられることを証明したのだ。一九七六年のことだった。
「俺はあれが完全な証明だとは思っていない」石神はいった。
「そうなんだろうな。だからこそ、そうやって紙と鉛で解こうとしているわけだ」
「あのやり方は人間が手作業で調べるには膨大すぎる。だからこそコンピュータを使ったんだろうが、おかげでその証明が正しいのかどうかを完璧に判断する手段がない。確認にもコンピュータを使わなければならないなんてのは、本当の数学じゃない」
「やっぱりエルデシュ信者だ」長髪の男はにっこり笑った。
ポールエルデシュはハンガリー生まれの数学者だ。世界各地を放浪しながら、各地の数学者と共同研究を成したことで有名だ。よい定理には美しく自然で簡明な証明が必ずある、という信念を持っていた。四色問題についても、アッベルとハーケンの証明はおそらく正しいだろうと認めつつ、その証明は美しくないと語っていた。
長髪の男は石神の本質を見抜いていた。彼はまさに「エルデシュ信者」だった。
「一昨日、数値解析の試験問題について教授のところへ質問に行った」長髪の男は話題を変えた。「問題としてはミスはないんだけれど、得られる解答がエレガントじゃなかったものでね。案の定、ちょっとした印刷ミスがあったらしい。ところが驚いたことに、同様の質問をしてきた学生がほかにいたらしいんだな。正直いって悔しかった。あの問題を完璧に解けたのは自分だけだろうと自惚うぬぼれていたからね」
「あれぐらいは」そこまでいったところで石神は言葉を呑んだ。
「解けて当然、あの石神なら――教授もそういってたよ。やっぱり上には上がいる。自分に数学科は無理だと思った」
「おたく、物理学科志望といったな」
「湯川だ。よろしく」彼は石神に握手を求めてきた。
変わった男だなと思いながら石神はそれに応じた。そして、なんだかおかしくなった。変わった男だといわれるのは常に自分だと思ってきたからだ。
湯川とは特に友達付き合いをしたわけではなかったが、顔を合わせた時には必ずといっていいほど言葉を交わした。彼は博学で、数学や物理学以外のこともよく知っていた。石神が内心は馬鹿にしている文学や芸能についても詳しかった。もっとも、その知識がどの程度に深いものかは石神にはわからなかった。彼自身が判断基準を持っていなかったし、湯川は石神が数学以外のことには興味を示さないと知ったのか、間もなく畑違いの話題は出してこなくなったからだ。
それでも石神にとって湯川は、大学に入って初めて出来た話仲間であり、実力を認められる人物だった。
やがて二人はあまり顔を合わさなくなった。数学科と物理学科というふうに進路がわかれたからだ。この学科間での転籍は、ある一定基準の成績に達していれば認められていたが、どちらも変更を望まなかった。それはお互いにとって正解だったと石神は思っている。どちらも自分に適した道を選んだのだ。この世のすべてを理論によって構築したいという野望は二人に共通したものだったが、そのアプローチ方法は正反対だった。石神は数式というブロックを積み上げていくことでそれを成し遂げようとした。一方湯川は、まず観察することから始める。その上で謎を発見し、それを解明していくのだ。石神はシミュレーションが好きだったが、湯川は実験に意欲的だった。
めったに顔は合わせなかったが、湯川の噂は時折石神の耳にも入ってきた。大学院二年の秋、彼の考案した磁界歯車を某アメリカ企業が買いにきたという話を聞いた時には、素直に感服した。
修士課程修了後に湯川がどうしたのか、石神は知らない。彼自身が大学を去ったからだ。そして会わないまま二十年以上の月日が流れていた。
「へえ、相変わらずだな」部屋に入り、書棚を見上げるなり湯川はいった。
「何がだ」
「数学三味ざんまいだな、と思ったんだよ。うちの数学科の連中でも、個人的にこれだけの資料を揃えている者はいないんじゃないかな」
石神は何もいわなかった。書棚には単なる関係書籍だけでなく、様々な国の学会資料をファイルしたものも並んでいる。主にインターネットを利用して入手したのだが、生半可なまはんかな研究者よりも現在の数学界には精通しているという自負が彼にはあった。
「とにかく座れよ。コーヒーでも入れるから」
「コーヒーも悪くないが、こういうものを持ってきた」湯川は提げていた紙袋から箱を取り出した。有名な日本酒だった。
「なんだ、そんな気を遣わなくてもよかったのに」
「久しぶりに会うのに、手ぶらってのも何だからな」
「すまんな。じゃあ、寿司でも取ろう。食事、まだなんだろ」
「いや、そっちこそ気を遣わないでくれ」
「俺もまだ食べてないんだよ」
電話の子機を手にし、店屋物を注文する時のために作ってあるファイルを開いた。しかし寿司屋の品書きを見て、少し迷った。いつも注文するのは並の盛り合わせだった。
電話をかけ、盛り合わせの上と刺身を注文した。寿司屋の店員は意外そうに受け答えをしていた。この部屋にきちんとした客が来るのほ何年ぶりだろうと石神は思った。
「それにしても驚いたな。湯川が来るなんて」座りながら彼はいった。
「知り合いからたまたま聞いて、懐かしくなったものだから」
「知り合い そんな人間いたかな」
「うん、それがまあ妙な話でね」湯川はいいづらそうに鼻の横を掻いた。「警視庁の刑事がここに来ただろ。草薙という男だ」
「刑事――」
石神はどきりとしたが、それを顔に出さぬよう気をつけた。そして改めてかつての学友の顔を見た。この男は何かを知っているのだろうか――
「あの刑事、同期なんだ」
湯川の口から出たのは、意外な言葉だった。
「同期」
「バドミントン部の、さ。ああ見えても我らと同じ帝都大の出身だ。社会学部だけどな」
「ああそうだったのか」石神の胸に広がりかけていた不安の雲が急速に消えた。「そういえば彼、俺のところに来た大学からの封筒をじろじろ見ていたな。帝都大ってことにこだわっているように思えたのはそのせいか。でもそれなら、あの時にそういってくれればよかったのに」
「あの男にとって帝都大理学部の卒業生は同級生でも何でもないんだよ。違う人種だと思っている」
石神は頷いた。それはお互い様だと思った。同じ時期に同じ大学に通っていた人間が今は刑事になっているのかと思うと妙な感じがした。
「草薙から聞いたんだが、今は高校で数学を教えてるとか」湯川は真っ直ぐに石神の顔を見つめてきた。
「この近くの高校だ」
「そうらしいな」
「湯川は大学にいるんだろ」
「うん。十三研究室にいる」あっさりとした口調でいった。演技でなく、本心から自慢する気はないのだろうと石神は解釈した。
「教授か」
「いや、その手前でうろうろしている。上が詰まってるからな」湯川は屈託なくいった。
「磁界歯車の功績があるから、今頃は教授になっているとばかり思っていたが」
石神の言葉に、湯川は笑って顔をこすった。
「その名称を覚えているのは石神ぐらいだ。結局実用化されず、今じゃ机上の空論扱いってところかな」そういって彼は持参してきた酒の蓋を開け始めた。
石神は立ち上がり、コップを二つ、棚から出した。
「石神こそ、今頃はどこかの大学の教授におさまって、リーマン予想にでも挑戦しているんだろうと思ってたんだけどな」湯川はいった。「ダルマの石神が一体どうしたんだ。それともエルデシュに義理立てして、放浪の数学者を気取ってるのか」
「そんなんじゃあないさ」石神は小さく吐息をついた。
「まあ、とにかく一杯やろう」湯川は深く尋ねようとはせず、コップに酒を注いだ。
もちろん石神も生涯を数学の研究に捧げるつもりだった。修士課程修了後には、湯川と同様に大学に残って博士号を目指す決意をしていた。
それが叶わなかったのは、両親の面倒を見なければならなくなったからだ。どちらも高齢で、持病があった。アルバイトをしながら大学院に通うことはできても、両親の生活費までは捻出できない。
そんな時、ある新設の大学で助手を探しているという話を教授が教えてくれた。自宅から通える距離であり、数学の研究を続けられるのならと思い、その話に乗ることにした。結局それが彼の人生を狂わせることになった。
その大学では研究らしいことは何ひとつできなかった。教授たちは権力争いと保身のことしか考えておらず、優れた学者を育てようという意識も、画期的な研究を成し遂げようという野心もなかった。石神が苦労して書き上げた研究レポートは、いつまで経っても教授の引き出しに入ったままだった。おまけに学生のレベルは低く、高校数学でさえ満足に理解していない者の面倒を見るのに、石神の研究時間は割かれた。それほどの我慢を強いられるわりに賃金はあきれるほどに低かった。
ほかの大学での再就職を望んだが、希望は叶いそうになかった。そもそも数学科を置いている大学が少ないのだ。置いていたとしても予算が少なく、助手を入れる余裕がない。工学部と違い、企業がスポンサーについてくれることもないからだ。
人生の