の経営にも支障が出るだろう。そう考えると、完璧に隠す以外に残された道はないと思った。
そんなことを考えながら彼女は仕事を続けた。ついぼんやりしそうになるが、今ここで商売に身が入らないのではお話にならないと思い、客の応対をする時には気持ちを集中させた。
六時が近くなり、客足が途絶えてしばらくした頃、店のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」反射的に声を出し、客の顔を見た。同時に靖子は目を丸くしていた。「あら」
「よう」男は笑った。目の両端に皺が寄っている。
「工藤さん」靖子は開いた口元に手をやっていた。「どうしたの」
「どうしたってことはないだろ。弁当を買いにきたんだよ。へえ、ずいぶんとメニューが豊富じゃないか」工藤は弁当の写真を見上げた。
「まりあんで聞いてきたの」
「まあな」彼はにやりとした。「昨日、久しぶりに店に行ったんだ」
靖子は弁当の受け取りカウンターから奥に呼びかけた。「小代子さん、大変。ちょっと来て」
「どうしたの」小代子が驚いたように目を見張った。
靖子は笑いながらいった。「工藤さんよ。工藤さんが来てくれた」
「えっ、工藤さんって」小代子がエプロンを外しながら出てきた。笑顔で立っているコート姿の男を見上げ、大きく口を開いた。「わあ、工藤ちゃん」
「二人とも元気そうだな。ママは旦那さんとうまくやってるのか。この店を見れば、順調だってことはわかるけど」
「何とかやってますよ。でも、どうして突然来てくれたの」
「うん、まあ、二人の顔を見たくなってさ」工藤は鼻を掻きながら靖子を見た。照れた時に彼が見せるその癖は、数年前から変わっていなかった。
靖子が赤坂で働いていた頃からの馴染み客だった。いつも指名してくれるし、彼女が出勤する前に一緒に食事をしたこともある。店が終わった後、二人で飲みに行くこともしばしばだった。富樫から逃げるように錦糸町のまりあんに移った時、靖子は工藤にだけはそのことを知らせた。すると彼はすぐに常連になった。まりあんを辞める時も、彼には一番最初に告げた。彼は少し寂しそうな顔をしながら、「がんばって幸せになれよ」といってくれたのだった。
それ以来の再会だった。
奥から米沢も出てきて昔話で盛り上がった。まりあんの常連客として、米沢と工藤も面識があったからだ。
ひとしきり話した後、「二人でお茶でも飲んでくれば」と小代子がいった。気をきかせたのだろう。米沢も頷いている。
靖子が工藤を見ると、「時間はあるの」と彼は訊いてきた。最初からそのつもりでこんな時間を選んだのかもしれない。
じゃあ少しだけ、と彼女は笑顔で答えた。
店を出て、新大橋通りに向かって歩きだした。
「本当はゆっくり食事をしたいんだけど、今日はやめておこう。娘さんが待ってるだろうから」工藤はいった。彼は靖子に娘がいることを、彼女が赤坂にいる頃から知っている。
「工藤さん、お子さんは元気」
「元気だよ。今年はもう高校三年だ。受験のことを考えると頭が痛い」彼は顔をしかめた。
工藤は小さな印刷会社を経営している。家は大崎で、妻と息子との三人暮らしだと靖子は聞いていた。
新大橋通り沿いにある小さな喫茶店に入った。交差点のそばにファミリーレストランがあったのだが、靖子は意図的にそこを避けた。富樫と会った場所だからだ。
「まりあんに行ったのはさ、君のことを尋ねるためだったんだ。店を辞める時に、小代子ママの弁当屋で働くって話は聞いてたけど、場所とかは知らなかったから」
「急にあたしのことを思い出してくれたの」
「うん、まあ、そうなんだけどさ」工藤は煙草に火をつけた。「じつは、ニュースで事件のことを知って、それでちょっと気になったんだよ。元の御主人、大変なことだったね」
「ああよくわかったわね。あの人だって」
工藤は煙を吐きながら苦笑いした。
「そりゃわかるよ。富樫って名前だし、あの顔は忘れられないし」
「ごめんなさい」
「君が謝ることはない」工藤は笑いながら手を振った。
彼が靖子に気があることは、無論彼女もわかっていた。彼女も好意を持っていた。しかし、いわゆる男女の関係になったことは一度もなかった。何度かホテルに誘われたことはある。そのたびに彼女はやんわりと断った。妻子ある男性との不倫に踏み切る勇気はなかったし、その時点では工藤に隠していたが、彼女にも夫がいた。
工藤が富樫と会ってしまったのは、靖子を家まで送った時だ。彼女はいつも少し離れたところでタクシーを降りるし、その時もそうしたのだが、タクシーの中に煙草入れを落としてしまった。工藤はそれを届けようと後を追い、彼女がアパートの一室に消えるのを目撃した。彼はそのまま部屋を訪ねた。ところがドアを開けて出てきたのは、靖子ではなく知らない男――富樫だった。
その時富樫は酔っていた。突然訪ねてきた工藤を、靖子にしつこくいい寄っている客だと断定した。工藤が何の説明もせぬうちに怒りだし、殴りかかった。シャワーを浴びようとしていた靖子が止めなければ、包丁を手にしかねない剣幕だった。
後日、靖子は富樫を連れて、工藤のところへ謝りに行った。その時には富樫も殊勝な顔でおとなしくしていた。警察へ届けられたらまずいと思ったからだろう。
工藤は怒らなかった。奥さんにいつまでも水商売を続けさせるのはよくないと富樫に注意しただけだった。富樫は明らかに不快そうだったが、黙って頷いていた。
その後も工藤は、それまでと変わらず店に来てくれた。靖子に対する態度も同じだった。ただし店外で会うことはなくなった。
周りに人がいない時などごくたまに、富樫のことを尋ねてきた。大抵は、仕事は見つかったのか、という問いだった。彼女はいつもかぶりを振るしかなかった。
富樫の暴力に最初に気づいたのも工藤だった。顔や身体に出来た痣あざを彼女は化粧などで巧妙に隠していたが、彼の目だけはごまかせなかったのだ。
弁葎士に相談したほうがいい、費用は自分がもつ――工藤はそういってくれたのだった。
「それで、どうなの。君の周りに何か変わったことはないのかい」
「変わったことってそれはまあ、警察の人が来たりとかはするけど」
「やっぱりそうか。そんなことじゃないかと思った」工藤は舌打ちをしそうな顔をした。
「別に、心配するようなことはないから」靖子は笑いかけた。
「何かいってくるのは警察だけ マスコミの連中とかは」
「それは何も」
「そうか。それならよかった。まあ、マスコミが飛びつくような派手な事件ではないと思ったんだけど、万一嫌な目に遭っているようなら何か手助けしたいと思ってね」
「ありがとう。相変わらず優しいのね」
彼女の言葉に工藤は照れたようだ。俯いてコーヒーカップに手を伸ばした。
「じゃあ、靖子ちゃんは事件とは特に関係ないんだね」
「ないわよ。あると思ってたの」
「ニュースを見た時、まず君のことを思い出した。それで、急に不安になったんだ。何しろ殺人事件だからね。あの人がどんな理由で誰に殺されたのかは知らないけど、今度は君にとばっちりがくるんじゃないかってね」
「小代子さんも同じことをいってた。誰でも考えることは同じなのね」
「こうして靖子ちゃんの元気そうな顔を見ていると、やっぱり考えすぎだったんだなと思うけどね。君はあの人とは何年も前に離婚しているわけだし。最近はもう会うことはなかったんだろ」
「あの人と」
「そう。富樫さんと」
「ないわよ」そう答えた時、微妙に顔が強張るのを靖子は感じた。
その後、工藤は自分の近況について語りだした。不景気だが、会社は何とか業績を維持しているらしい。家庭については、一人息子のこと以外は話したがらない。それは昔からのことだった。だから彼と妻との仲については靖子には全くわからないのだが、おそらく不仲ということはないだろうと想像していた。外で他人に配慮できる男は概おおむね家庭が円満だというのは、靖子がホステス時代に悟ったことだ。
喫茶店のドアを開けると、外は雨になっていた。
「悪いことしちゃったな。さっさと帰れば雨に遭わずにすんだね」工藤は申し訳なさそうに靖子を振り返った。
「そんなこといわないで」
「ここからは遠いの」
「自転車で十分ぐらいかな」
「自転車 そうだったのか」工藤は唇を噛み、雨を見上げた。
「平気。折り畳み式の傘を持ってるし、自転車は店に置いておくから。明日の朝、少し早く出ればいいだけのことだし」
「じゃあ、送っていくよ」
「あ、大丈夫よ」
しかし工藤はすでに歩道に出ていて、タクシーに向かって手を挙げていた。
「今度はゆっくり食事をしないか」タクシーが走りだして間もなく、工藤がいった。「何ならお嬢さんが一緒でもかまわない」
「あの子のことは気にしなくていいけど、工藤さんは大丈夫なの」
「僕はいつだって大丈夫だよ。今はそんなに忙しくないんだ」
「そう」
靖子は彼の妻のことをいったのだが、問い直すのはやめておいた。彼もそれをわかっていて、勘違いしたふりを装っていると感じたからだ。
携帯電話の番号を訊かれたので、靖子は教えた。拒否する理由がなかった。
工藤はタクシーをアパートのすぐそばまで寄せてくれた。靖子のほうが奥に乗っていたので、彼も一旦車を降りた。
「濡れるから、早く乗って」外に出ると、彼女はいった。
「じゃ、また今度」
「うん」靖子は小さく頷いた。
タクシーに乗り込んだ工藤の目が、彼女の背後に向けられた。それにつられて振り向くと、隅段の下で一人の男が傘をさして立っていた。暗くて顔がよくわからないが、その体型から石神だと彼女は察した。
石神はゆっくりと歩いていく。工藤が目を向けたのは、石神がじっと二人のことを見ていたからではないかと靖子は想像した。
「電話するよ」そういい残し、工藤はタクシーを出した。
遠ざかるテールランプを靖子は見送った。久しぶりに気持ちが高ぶっているのを彼女は自覚した。男性と一緒にいて心が浮き立ったことなど何年ぶりだろうと思った。
タクシーが石神を追い越していくのが見えた。
部屋に帰ると美里がテレビを見ていた。
「今日、何かあった」靖子は尋ねた。
学校のことなどでは無論ない。それは美里もわかっているはずだった。
「何もなかった。ミカも何もいってなかったから、まだ刑事が来てないんだと思う」
「そう」
間もなく彼女の携帯電話が鳴りだした。公衆電話からのものであることを液晶画面が示していた。
「はい、あたしです」
「石神です」予想通りの低い声が聞こえてきた。「今日は何かありましたか」
「特に何もありませんでした。美里のほうも、何もなかったといっています」
「そうですか。でも油断しないでください。警察があなたに対する疑念を捨てたはずはないのです。おそらく今は、徹底的に周辺を調べているところだと思います」
「わかりました」
「そのほかに変わったことは」
「えっ」靖子は戸惑った。「だから、変わったことは特に何もなかったんですけど」
「あそうでしたね。どうもすみません。では、また明日」石神は電話を切った。
靖子は怪訝に感じながら携帯電話を置いた。石神が珍しく狼狽を示したように思えたからだった。
工藤を見たからではないか、と靖子は思った。親しげに彼女と話していた彼を、石神は一体何者なのかと訝ったのではないか。彼のことを知りたいという思いが、最後の奇妙な質問になったのではないか。
靖子は、石神がなぜ彼女たち母娘を助けてくれるのかわかっている。おそらく小代子たちがいうように、彼は靖子に気があるのだろう。
しかしもし彼女がほかの男性と親しくしたらどうだろう。それでも今までどおり、力を貸してくれるだろうか。彼女たちのために知恵を働かせてくれるだろうか。
工藤とは会わないほうがいいかもしれないと靖子は思った。たとえ会ったとしても、石神に気づかれてはならない。
だがそう思った後、不意にいいようのない焦燥感のようなものが彼女の胸に広がった。
それはいつまでのことなのだ。いつまで、石神の目を盗まねばならないのか。それとも事件が時効にならないかぎり、永久に自分は他の男性と結ばれることはないのか――。
8
きゅっきゅっとシューズの底が滑る音がした。それとほぼ同時に、小さな破裂音のようなものも聞こえる。草薙にとって懐かしい音だった。
体育館の入り口に立ち、中を覗いた。手前のコートで湯川がラケットを構えていた。太股の肉は、若い頃に比べてさすがに少し衰えたようだ。しかしフォームは変わらない。
相手のプレーヤーは学生のようだ。なかなかの腕前で、湯川のいやらしい攻撃にも振り回されない。
学生のスマッシュが決まった。湯川はその場に座り込んだ。苦笑して、何かいっている。
その目が草薙を捉えた。学生に一声かけた後、湯川はラケットを手に近づいてきた。
「今日は何の用だ」
湯川の問いに、草薙は小さくのけぞった。
「その言いぐさはないだろう。そっちが電話をかけてきたみたいだから、何の用かと思って、やってきたんじゃないか」
草薙の携帯電話に、湯川からの着信記録が残っていたのだ。
「なんだ、そうか。大した用じゃないから、メッセージは残さなかったんだ。ケータイの電源を切ってるぐらいだから、余程忙しいんだろうと気をきかせてね」
「その時間は映画を見てたんだ」
「映画 勤務中にかい。いい御身分だな」
「そうじゃなくて、例のアリバイ確認のためだ。一応、どんな映画か見ておこうと思ってね。でなきゃ、容疑者のいってることの信憑しんぴょう性を確かめられないだろ」
「いずれにしても役得だな」
「仕事で見るんじゃ、楽しくも何ともないんだよ。大した用じゃないなら、わざわざ来るんじゃなかったな。研究室に電話をかけたんだけど、おまえは体育館にいるっていうしさ」
「まあせっかくだから、一緒に飯でも食おう。それに用があるのは事実だし」湯川は入り口で脱ぎ捨ててあった靴に履き替えた。
「一体何の用だ」
「その件だよ」歩き始めながら湯川はいった。
「その件って」
湯川は立ち止まり、草薙のほうにラケットを突き出した。「映画館の件だ」
大学のそばにある居酒屋に入った。草薙が学生時代にはなかった店だ。二人は一番奥のテーブルについた。
「容疑者たちが映画に行ったといっているのが、事件発生の今月十日だ。で、容疑者の娘が十二日にそのことを同級生に話している」湯川のコップにビールを注ぎながら草薙はいった。「ついさっき、その確認をしてきた。俺が映画を見たのは、その下準備だ」
「言い訳はわかったよ。それで同級生から話を聞いた結果はどうだった」
「何ともいえないな。その子によると不自然なところはなかったらしい」
上野実香というのが、その同級生の名前だ。彼女はたしかに十二日に、花岡美里から母親と映画に行った話を聞かされたという。その映画は実香も見たので、二人で大いに盛り上がったとのことだった。
「事件の二日後というのが引っかかるな」湯川がいった。
「そうなんだ。映画を見た者同士で盛り上がりたいなら、翌日すぐに話をするのがふつうだろ。それで俺はこう考えてみた。映画を見たのは十一日じゃないか、とね」
「その可能性はあるのか」
「ない、ともいいきれない。容疑者は仕事が六時までだし、娘もバドミントンの練習を終えてすぐに帰れば、七時からの上映に間に合う。実際、そういうふうにして十日は映画館に行ったと主張しているわけだし」
「バドミントン 娘はバドミントン部か」
「最初に訪ねていった時、ラケットが置いてあったんで、すぐにわかったんだ。そう、そのバドミントンというのも気になっている。おまえももちろん知ってるだろうけど、あれはかなり激しいスポーツだ。中学生とはいえ、クラブの練習をすればくたくたに疲れる」
「君のように要領よくさぼれば話は別だがね」おでんのコンニャクに辛子を塗りながら湯川はいった。
「話の腰を折るなよ。要するに俺がいいたいのは」
「クラブの練習でくたくたになった女子中学生が、その後で映画館に行くのはともかく、夜遅くまでカラオケボックスで歌っていたというのは不自然だ――そういいたいわけだろ」
草薙は驚いて友人の顔を見た。まさにそのとおりだった。
「でも一概に不自然とはいえないぜ。体力のある女の子だっているわけだし」
「それはまあそうだけど、痩せてて、見るからに体力がなさそうなんだよな」
「その日は練習がきつくなかったのかもしれない。