にある横断歩道の脇に、黒いコートを羽織った湯川の姿があった。石神を見て、にこやかに手を振ってきた。

    「わざわざ済まなかったな」湯川が笑顔で声をかけてきた。

    「何なんだ、突然こんなところまでやってきたりして」石神も表情を和ませて訊いた。

    「まあ、歩きながら話そう」

    湯川が清洲橋通り沿いに歩きだした。

    「いや、こっちだ」石神は脇道を指した。「この道を真っ直ぐ行ったほうが、俺のアパートには近い」

    「あそこに行きたいんだよ。例の弁当屋に」湯川はさらりといった。

    「弁当屋どうして」石神は顔が強張るのを感じた。

    「どうしてって、そりゃあ弁当を買うためだよ。決まってるじゃないか。今日、ほかにも寄るところがあって、ゆっくり食事をしている暇はなさそうだから、今のうちに晩飯を確保しておこうと思ってね。おいしいんだろ、そこの弁当は。何しろ、君が毎朝買ってるぐらいなんだから」

    「ああそうか。わかった、じゃあ、行こう」石神もそちらに足を向けた。

    清洲橋に向かって、二人並んで歩きだした。脇を大きなトラックが走り抜けていく。

    「先日、草薙に会ってね。ほら、前も話した、君のところに行ったという刑事だよ」

    湯川の言葉に石神は緊張した。嫌な予感が一層大きくなった。

    「彼が何か」

    「まあ大したことじゃないんだ。彼は仕事に行き詰まると、すぐに僕のところに愚痴をこぼしに来る。しかも、いつも厄介な問題を抱えてるから始末が悪い。以前なんか、ポルターガイストの謎を解いてくれなんていいだしてね、大いに迷惑したものだ」

    湯川はそのポルターガイスト談を話し始めた。たしかに興味深い事件ではあった。しかしそんなものを聞かせたくて、わざわざ石神に会いに来たわけではないはずだった。

    石神が、彼の本来の目的を訊こうと思っているうちに、べんてん亭の看板が見えてきた。

    湯川と二人で店に入っていくことに、石神は不安を覚えた。自分たちを見て、靖子がどんな反応を示すか予想できなかったからだ。こんな時間に石神が現れること自体、異例のことなのに、連れがいるとなれば、何か余計なことを深読みするかもしれない。彼女が不自然な態度をとらねばいいが、と願った。

    彼のそんな思いなどお構いなしに、湯川はべんてん亭のガラス戸を開け、中に入っていった。仕方なく、石神も後に続いた。靖子は他の客の相手をしているところだった。

    「いらっしゃいませ」靖子は湯川に向かって愛想笑いをし、次に石神のほうを見た。その途端、驚きと戸惑いの色が彼女の顔に浮かんだ。笑みが中途半端な形で固まった。

    「彼が何か」彼女の様子に気づいたらしく、湯川が訊いた。

    「あ、いえ」靖子はぎこちない笑みのまま、かぶりを振った。「お隣さんなんです。いつも買いに来てくださって」

    「そうらしいですね。彼からこの店のことを聞いて、それで一度食べてみようと思ったんです」

    「ありがとうございます」靖子は頭を下げた。

    「彼とは大学の同窓生でしてね」湯川は石神のほうを振り返った。「つい先日も、部屋へ遊びに行ったんです」

    ああ、と靖子は頷いた。

    「彼からお聞きになりましたか」

    「ええ、少しだけ」

    「そうですか。ところで、お薦めの弁当はどれですか。彼はいつも何を買うんですか」

    「石神さんは大抵おまかせ弁当ですけど、今日は売り切れてしまって」

    「それは残念だなあ。じゃあ、どれがいいかな。どれもおいしそうだなあ」

    湯川が弁当を選んでいる間、石神はガラス戸越しに外の様子を窺っていた。どこかで刑事が見張っているかもしれないと思ったからだ。靖子と親しげにしているところなど、彼等に決して見られてはならない。

    いやそれ以前に、と石神は湯川の横顔に目をやった。この男を信用してもいいのだろうか。警戒する必要はないのか。あの草薙という刑事と親友であるからには、今ここでの様子も、この男を通じて警察に伝わるかもしれないのだ。

    その湯川はようやく弁当のメニューが決まったようだ。靖子がそれを奥に伝えている。

    その時だった。ガラス戸を開けて、一人の男が入ってきた。何気なくそちらを見た石神は、思わず口元を引き締めた。

    ダークブラウンのジャケットに身を包んだ男は、つい先日、アパートの前で見た人物に相違なかった。タクシーで靖子を送ってきた。二人が親しげに話しているのを、石神は傘をさして見つめていた。

    男のほうは石神に気づかぬ様子だ。奥から靖子が戻ってくるのを待っている。

    やがて靖子が戻ってきた。彼女は新たに入ってきた客を見て、あら、という顔をした。

    男は何もいわない。笑顔で小さく頭を下げただけだ。話をするのは邪魔な客がいなくなってから、とでも考えているのかもしれない。

    この男は何者だ、と石神は思った。どこから現れ、いつの間に花岡靖子と親しくなったのか。

    タクシーから降りてきた時の靖子の表情を、石神は今もはっきりと覚えている。それまでに見たことのない華やいだ顔をしていた。母親でも弁当屋の店員でもない顔だった。あれこそが彼女の本当の姿ではないのか。つまりあの時彼女が見せたのは女の顔だったのだ。

    俺には決して見せない顔を、彼女はこの男には見せる。

    石神は謎の男と靖子とを、交互に見つめた。二人が挟む空気が揺らいでいるように感じられた。焦りに似た感情が石神の胸に広がっていた。

    湯川の注文した弁当が出来上がってきた。彼はそれを受け取って代金を支払うと、「お待たせ」と石神にいった。

    べんてん亭を出て、清洲橋の脇から隅田川べりに降りた。そのまま川に沿って歩きだす。

    「あの男性がどうかしたのかい」湯川が訊いてきた。

    「えっ」

    「後から入ってきた男の人だよ。何だか君が気にしている様子だったから」

    石神はぎくりとした。同時に、旧友の慧眼けいがんに舌を巻いた。

    「そうだったかな。いや、全然知らない人だ」石神は懸命に平静を装った。

    「そうか。それならいいんだ」湯川は疑った表情を見せなかった。

    「ところで急用というのは何なんだ。弁当を買うのだけが目的じゃないだろう」

    「そうだった。肝心のことをまだ話してなかった」湯川は顔をしかめた。「さっきも話したように、あの草薙という男は、何かというと僕のところに面倒な相談事を持ち込んでくる。今度も、弁当屋の女性の隣に君が住んでいると知って、早速やってきた。しかも、じつに不愉快なことを頼んできた」

    「というと」

    「警察では、依然として彼女を疑っているらしい。ところが、犯行を立証するものは何ひとつ見つけられないでいる。そこで、彼女の生活を何とか逐一監視したいと考えている。でも、見張るといったって限界がある。で、目をつけたのが君のことだ」

    「まさか俺にその監視役をやれとでも」

    湯川は頭を掻いた。

    「その、まさか、だよ。監視といっても四六時中見張ってるわけじゃない。ただ、隣の部屋の様子に少し気をつけて、何か変わったことがあれば連絡してほしい、ということだ。要するにスパイをしろってことだ。全くもう図々しいというか、失礼なことをいう連中だ」

    「湯川は、それを俺に依頼しに来たというわけか」

    「もちろん、正式な依頼は警察からくるだろう。その前に打診してくれと頼まれたんだ。僕としては君が断っても構わないと思うし、断ったほうがいいとさえ思っているんだけど、これもまあ浮き世の義理というやつでね」

    湯川は心底弱っているように見えた。しかし警察が民間人にそんなことを頼むだろうか、とも石神は思った。

    「わざわざべんてん亭に寄ったのも、それと関係があるのか」

    「正直いうとそうなんだ。その容疑者の女性というのを、一度この目で見ておきたくてね。だけど、彼女に人を殺せるとは思えないな」

    自分もそう思う、といいかけて、石神はその言葉を呑み込んだ。

    「さあね、人は見かけによらないからな」逆に、そう答えた。

    「たしかにね。それで、どうだい。警察からそういう依頼が来た場合、承諾できるかい」

    石神は首を振った。

    「正直なところ、断りたいな。他人の生活をスパイするなんて趣味に合わないし、そもそも時間がない。こう見えても忙しいんでね」

    「だろうな。じゃあ、僕のほうから草薙にそういっておこう。この話はここまでだ。気を悪くしたなら謝る」

    「別にそんなことはないさ」

    新大橋が近づいてきた。ホームレスたちの仮住まいも見える。

    「事件が起きたのは三月十日、とかいってたな」湯川がいった。「草薙の話では、その日、君はわりと早くに帰宅したそうだね」

    「特に寄るところもなかったからな。七時頃には帰った、と刑事さんには答えたんじゃなかったかな」

    「その後は例によって、部屋で数学の超難問と格闘かい」

    「まあ、そんなところだ」答えながら石神は、この男は俺のアリバイを確認しているんだろうか、と考えた。もしそうだとしたら、何らかの疑いを石神に対して抱いていることになる。

    「そういえば、君の趣味について聞いたことがなかったな。数学以外に何かあるのかい」

    石神はふっと笑った。

    「趣味らしい趣味はない。数学だけが取り柄だ」

    「気分転換はしないのか。ドライブとか」湯川は片手でハンドルを操る格好をした。

    「したくともできない。車がないからな」

    「でも免許は持っているんだな」

    「意外か」

    「そんなことはない。忙しくても、教習所に通う時間ぐらいはあるだろうからな」

    「大学に残ることを断念した後、大急ぎで取りに行った。就職に役立つかもしれないと思ってね。実際には、何の関係もなかったが」そういった後、石神は湯川の横顔を見た。

    「俺が車を運転できるかどうかを確認したかったのか」

    湯川は心外そうに瞬きした。「いや。どうして」

    「そんな気がしたからだ」

    「別に深い意味はない。君でもドライブぐらいはするのかなと思っただけだ。それに、たまには数学以外の話をしたいと思ってね」

    「数学と殺人事件以外の話、だろ」

    皮肉のつもりだったが、はははと湯川は笑った。「うん、そのとおりだ」

    新大橋の下にさしかかった。白髪頭の男が鍋をコンロに載せ、何かを煮ていた。男の脇には一升瓶が置かれていた。ほかにも何人か、ホームレスが外に出ている。

    「じゃぁ、僕はこれで失礼する。不愉快なことを聞かせて申し訳なかった」新大橋の横の階段を上がったところで湯川はいった。

    「草薙刑事に謝っておいてくれ。協力できなくてすまないと」

    「謝る必要なんてない。それより、また会いに来てもいいかな」

    「そりゃあ構わないが」

    「酒を飲みながら、数学の話をしよう」

    「数学と殺人事件の話、じゃないのか」

    湯川は肩をすくめ、鼻の上に皺を作った。

    「そうなるかもな。ところで、数学の新しい問題をひとつ思いついた。暇な時に考えてくれないか」

    「どういうのだ」

    「人に解けない問題を作るのと、その問題を解くのとでは、どちらが難しいか。ただし、解答は必ず存在する。どうだ、面白いと思わないか」

    「興味深い問題だ」石神は湯川の顔を見つめた。「考えておこう」

    湯川はひとつ頷き、踵を返した。そのまま通りに向かって歩きだした。

    9

    手長エビを食べ終えた時、ちょうどワインのボトルが空になった。靖子は自分のグラスに残ったワインを飲み干し、小さな吐息をついた。本格的なイタリアンを食べるのはいつ以来だろうと思った。

    「もう少し何か飲むかい」工藤が尋ねてきた。彼の目の下は、かすかに赤くなっていた。

    「あたしはもう結構。工藤さん、何か頼めば」

    「いや、僕も遠慮しておく。デザートを楽しむことにするよ」彼は目を細め、ナプキンで口元をぬぐった。

    ホステスをしていた頃、靖子は工藤と何度か食事をした。フレンチでもイタリアンでも、彼が一本のワインだけで終わることなどなかった。

    「お酒、あまり飲まなくなったの」

    彼女の問いに、工藤は何か考える表情をしてから頷いた。

    「そうだな、以前よりは少なくなったね。歳のせいかな」

    「そのほうがいいかもね。身体は大事にしなきゃ」

    「ありがとう」工藤は笑った。

    今夜の食事は、昼間に誘われた。靖子の携帯電話に工藤がかけてきたのだ。迷いながらも、彼女は承諾した。迷ったのは、無論、事件のことが気にかかっているからだ。こんな大事な時に、浮かれて食事になど行っている場合ではない、という自制心が働いた。警察の捜査に、靖子以上に怯えているに違いない娘に対し、申し訳ないという気持ちもあった。さらには、事件隠蔽に無条件で協力してくれている石神のことも気になった。

    だが、こんな時だからこそ、ふつうに振る舞うことが大切ではないか、と靖子は思った。ホステス時代に世話になった男性から食事を誘われれば、何か特別な理由がないかぎりは、断らないのが「ふつう」ではないかと考えた。もし断ったりしたら、そちらのほうが不自然で、そのことが小代子たちの耳に入れば、かえって怪しまれることになる。

    しかしそんな理屈も、じつは無理やりにこじつけたものにすぎないことに、彼女自身が気づいていた。食事の誘いに乗った最大にして唯一の理由は、工藤と会いたかった、ただそれだけだ。

    といっても工藤に対して恋愛感情を持っているかどうか、自分でもよくわからなかった。先日再会するまで、殆ど思い出すこともなかったのだ。好意は持っているが、まだその段階にすぎない、というのがおそらく本当のところだろう。

    だが食事の誘いを受けた直後から、華やいだ気分になったのは紛れもない事実だった。あの浮き浮きとした気分は、恋人とデートの約束をした時のものに限りなく近かった。体温がほんの少し上昇したような気さえした。浮き立った勢いで、小代子に頼んで仕事を抜けさせてもらい、家へ着替えに帰ったくらいだった。

    もしかしたらそれは、現在自分が置かれている息の詰まるような状態から、たとえ一時でも抜け出し、辛いことを忘れたいという欲求があったせいかもしれない。あるいは、長い間封印してきた、女性として扱われたいという本能が目を覚ましたからかもしれない。

    いずれにせよ靖子は、食事に来たことを後悔していなかった。短い時間だったし、後ろめたさは常に頭の隅にこびりついていたが、久しぶりに楽しい気分を味わえた。

    「今夜、お嬢さんの食事はどうしたの」コーヒーカップを手に、工藤が訊いてきた。

    「店屋物をとってちょうだいって留守電に入れておいたの。たぶんピザにすると思う。あの子、ピザが好きだから」

    「ふうん。なんだかかわいそうだな。こっちは御馳走を食べてるっていうのに」

    「でも、こういうところで食べるより、テレビを見ながらピザを食べてるほうがいいっていうと思う。気の張る場所って嫌いだから」

    工藤は顔をしかめて頷き、鼻の横を掻いた。

    「そうかもしれないな。おまけに知らないおじさんと一緒じゃ、ゆっくりと味わうこともできないしな。今度は少し考えよう。回転寿司か何かのほうがいいかもしれない」

    「ありがとう。でも気を遣わないで」

    「気を遣ってるわけじゃない。僕が会いたいんだ。君の娘さんにさ」そういうと工藤はコーヒーを飲みながら、上目遣いに彼女を見た。

    食事に誘ってきた時、お嬢さんも是非一緒に、と彼はいってくれたのだった。本心からの言葉であるように靖子には感じられた。誠意を示してくれているようで嬉しかった。

    とはいえ、美里を連れてくるわけにはいかなかった。こういう場を彼女が好きでないというのは事実だ。だがそれ以上に、今の美里には必要以上に他人と接触させたくなかった。万一話題が事件に関することに及んだ場合、平静を保っていられるかどうかがわからない。それにもう一つ、工藤の前では女性に戻っているかもしれない自分の姿を、娘に見せたくなかった。

    「工藤さんのほうこそどうなの 御家族と一緒に食事をしなくても平気なの」

    「僕のほうか」工藤はコーヒーカップを置き、テーブルに両肘をついた。「そのことを話しておきたくて、今日、食事に誘ったようなものなんだ」

    靖子は首を傾げ、彼の顔を見つめた。

    「じつはね、今、独り身なんだ」

    えっ、と靖子は声を漏らした。目を見張っていた。

    「女房がガンにかかってね。膵臓ガンだ。手術をしたんだけど、手遅れだった。それで、去年の夏、息を引き取った。若かったから、進行が早かった。あっという間だったよ」

    淡々とした口調だった。そのせいか、話の内容が実感を伴っては靖子の耳に伝わってこなかった。彼女は数秒間、ぼんやりと彼の顔を見ていた。

    「それ、本当」ようやくそれだけいった。

    「冗談では、こんなことはいえない」彼は笑った。

    「そうだろうけど、何といえばいいのか」彼女