ては、僕の意見なんか訊く必要はないはずだ」
「ところがそうはいかない。俺にだって立場というものがある。うちの上司に報告するのに、ただあてずっぽうで石神に目をつけた、とはいえない」
「花岡靖子の周辺を調べていたら、石神という数学教師が浮かんできた――それで十分じゃないか」
「そう報告したさ。それで石神と花岡靖子の関係を調べてみた。だが残念ながら今のところ、二人の間に密接な関係があるという裏づけを取れないでいる」
すると湯川はマグカップを持ったまま、身体を揺するように笑った。
「まあ、そうだろうな」
「何だよ。どういう意味だ」
「深い意味なんかない。彼等の間には何もないだろうといっているだけだ。いくら調べても何も出てこないと断言しておこう」
「他人事のようにいうな。うちの班長なんか、早くも石神には興味を失いかけている。今のままだと俺が勝手に動くこともできなくなる。それでおまえに、石神に目をつけた理由を教えてもらいたいんだ。なあ湯川、もういいだろ。どうして話してくれないんだ」
草薙が懇願の口調になったからか、湯川は真顔に戻り、マグカップを置いた。
「話しても意味がないからだ。君にとっても何の役にも立たない」
「どうして」
「僕が、この事件に彼が関係しているんじゃないかと思ったきっかけは、君がさっきから何度もいっていることと同じだからだ。ある些細なことから、彼の花岡靖子に対する思いを察知した。それで、彼が事件に関わっている可能性を調べてみようという気になったんだ。好意を持っているらしいというだけで、なぜそんなふうに考えたのかと君は訊きたいのだろうが、これはいわば直感のようなものだ。彼のことをある程度わかっている人間でなければ理解することは難しい。君もよく、刑事の勘、ということをいうじゃないか。いわばそれと同等だ」
「日頃のおまえからは考えられない発言だな。直感、とはね」
「たまにはいいだろ」
「じゃあ、石神の靖子に対する思いを察知した、きっかけというやつだけでも教えてくれ」
「断る」湯川は即座に答えた。
「おい」
「彼のプライドに関することだからだ。ほかの人間には話したくない」
草薙がため息をついた時、ドアをノックする音がして一人の学生が入ってきた。
「やあ」湯川がその学生に呼びかけた。「急に呼んですまなかった。先日のレポートについて話しておきたいことがあってね」
「何でしょうか」眼鏡をかけた学生は直立不動になった。
「君のレポートはなかなかよく書けていた。ただ、ひとつだけ確認しておきたいことがある。君はあれを物性論で語っていたが、どうしてかな」
学生は戸惑った目をした。
「だって、物性論の試験だったから」
湯川は苦笑し、続いてかぶりを振った。
「あの試験の本質は素粒子論にある。だからそちらからもアプローチしてほしかった。物性論の試験だからといって、ほかの理論は無用だと決めつけるな。それではいい学者になれない。思い込みはいつだって敵だ。見えるものも見えなくしてしまうからな」
「わかりました」学生は素直に頷いた。
「君が優秀だからアドバイスするんだ。御苦労さん、もういいよ」
ありがとうございました、といって学生は出ていった。
草薙は湯川の顔を見つめていた。
「なんだ、僕の顔に何かついてるかい」湯川が訊いた。
「いや、学者は皆同じようなことをいうと思ってさ」
「というと」
「石神からも似たような話を聞いた」草薙は、石神が試験問題について語っていた内容を湯川に話した。
「ふうん、思い込みによる盲点をつくか。彼らしいな」湯川はにやにやした。
だが次の瞬間、物理学者の顔つきが変わった。彼は突然椅子から立ち上がると、頭に手をやり、窓際まで歩いた。そして空を見上げるように上を向いた。
「おい、湯川」
だが湯川は、思考の邪魔をするなとでもいうように草薙のほうに掌を向けた。草薙は仕方なく、そんな友人の様子を眺めた。
「ありえない」湯川は呟いた。「そんなことができるはずがない」
「どうしたんだ」草薙は堪たまらず訊いた。
「さっきの紙を見せてくれ。石神の勤怠表だ」
湯川にいわれ、草薙はあわてて折り畳んだ紙を懐から取り出した。それを受け取ると、湯川は紙面を睨み、低く唸った。
「そんなまさか‥」
「おい、湯川、何だっていうんだ。俺に教えてくれよ」
湯川は勤怠表を草薙のほうに差し出した。
「悪いが、今日は帰ってくれ」
「何だよ、それはないだろう」草薙は抗議した。だが湯川の顔を見た途端、次の言葉は出なくなった。
友人の物理学者の顔は、悲しみと苦痛に歪んでいるようだった。そんな表情を、草薙はこれまでに一度も見たことがなかった。
「帰ってくれ。すまん」湯川はもう一度いった。呻くような声だった。
草薙は腰を上げた。尋ねたいことは山のようにあった。しかし、今の自分に出来ることは、友人の前から去ることだけだと思わざるをえなかった。
15
時計が午前七時三十分を示した。石神は鞄を抱えて部屋を出た。その鞄には、彼がこの世で最も大切にしているものが入っている。現在、彼が研究している、ある数学理論をまとめたファイルだ。現在、というより、これまでずっと研究を続けてきた、といったほうが正確かもしれない。何しろ、彼は大学の卒業論文でも、それを研究テーマにしたのだ。そして、まだ完成には至っていない。
その数学理論の完成には、これからさらに二十年以上はかかるだろう、と彼は目算を立てている。下手をしたら、もっとかかるかもしれない。それほどの難問だからこそ、数学者が一生をかけるにふさわしいと信じている。また、自分以外には完成できないという自負も彼にはあった。
ほかのことは一切考える必要がなく、雑事に時間を奪われることもなく、難問への取り組みだけに没頭できたらどんなに素晴らしいだろう――石神はしばしばそんな妄想に駆られる。果たして生きているうちにこの研究を成し遂げられるだろうかと不安になるたび、それとは無縁のことをしている時間が惜しくなる。
どこへ行くにしても、このファイルだけは手放せないと彼は思った。寸暇を惜しんで、研究を一歩でも先に進めなければならない。紙と鉛さえあれば、それは可能だ。この研究と向き合えるならば、ほかに何も求めるものはない。
いつもの道を、彼は機械的に歩いた。新大橋を渡って、隅田川沿いに進む。右側には青いビニールシートで作られた小屋が並んでいる。伸びた白髪を後ろで束ねた男が、鍋をコンロにかけていた。鍋の中身はわからない。男のそばには薄茶色の雑種犬が繋がれていた。犬は飼い主に尻を向け、くたびれたように座っていた。
缶男は相変わらず、缶を潰していた。独り言をぶつぶつと呟いている。彼の傍らには、すでに空き缶で満杯になったビニール袋が二つもあった。
缶男の前を通りすぎてしばらく歩くと、ベンチがあった。誰も座っていなかった。石神はそれをちらりと見てから、また俯いた姿勢に戻った。彼の歩く歩調は変わらなかった。
前方から誰かが歩いてくる気配があった。時間的には、三匹の犬を連れた老婦人と出会う頃だが、彼女ではなさそうだ。石神は何気なく顔を上げた。
「あっ」彼は声を漏らし、足を止めていた。
相手は立ち止まらなかった。それどころか、にこにこと笑顔を浮かべ、彼に近づいてきた。相手は石神の前まで来て、ようやく足を止めた。
「おはよう」湯川学はいった。
石神は一瞬返事に窮した後、唇を舐めてから口を開いた。
「俺を待ってたのか」
「もちろんそうさ」湯川はにこやかな表情のまま答えた。「でも、待っていたというのとは少し違う。清洲橋のほうからぶらぶらと歩いてきたところだ。君に会えるだろうと思ってね」
「余程の急用みたいだな」
「急用どうかな。そうなるのかな」湯川は首を傾げた。
「今、話したほうがいいのか」石神は腕時計を見た。「あまり時間はないんだが」
「十分か、十五分でいい」
「歩きながらでいいか」
「構わないが」湯川は周囲を見回した。「少しだけここで話がしたい。二、三分でいい。そこのベンチに座ろう」そういうと彼は石神の返事を待たず、空いているベンチに向かった。
石神は吐息をつき、友人に従った。
「前にも一度、一緒にここを歩いたことがある」湯川がいった。
「そうだったな」
「あの時、君はいった。ホームレスの連中を見て、彼等は時計のように正確に生きている、と。覚えてるかい」
「覚えている。人間は時計から解放されるとかえってそうなる――これはおまえの台詞だ」
湯川は満足そうに頷いた。
「僕や君が時計から解放されることは不可能だ。お互い、社会という時計の歯車に成り下がっている。歯車がなくなれば時計は狂いだす。どんなに自分一人で勝手に回っていたいと思っても、周りがそれを許さない。そのことで同時に安定というものも得ているわけだが、不自由だというのも事実だ。ホームレスの中には、元の生活には戻りたくないと思っている人間も結構いるらしい」
「そんな無駄話をしていると、二、三分なんてすぐに経つぞ」石神は時計を見た。「ほら、もう一分経った」
「この世に無駄な歯車なんかないし、その使い道を決められるのは歯車自身だけだ、ということをいいたかったんだ」湯川は石神の顔をじっと見つめてきた。「学校を辞める気なのか」
石神は驚いて目を見開いた。「どうしてそんなことを」
「いや、何となくそんな気がしたんだ。君だって、自分に与えられた役割が、数学教師という名の歯車だと信じているわけじゃないだろうと思ったからね」湯川はベンチから腰を上げた。
「行こうか」
二人は並んで隅田川沿いの堤防を歩きだした。石神は、隣の旧友が会話をしかけてくるのを待った。
「草薙が君のところへ行ったそうだな。アリバイを確認したとか」
「うん。先週だったかな」
「彼は君を疑っている」
「そうらしい。どうしてそんなふうに思ったのか、俺にはまるで見当がつかないんだが」
すると湯川は、ふっと口元を緩めた。
「じつをいうと彼だって半信半疑なんだ。僕が君のことを気にしているのを見て、君に関心を持ったにすぎない。おそらくこういうことをばらすのはまずいんだろうが、警察は君を疑う根拠を殆ど持っていない」
石神は足を止めた。「どうしてそのことを俺に話すんだ」
湯川も止まり、石神のほうを向いた。
「友人だからだ。それ以外に理由はない」
「友人なら話す必要があると思ったのか どうして 俺は事件とは無関係だぞ。警察が疑っていようといなかろうと、どっちでもいい」
湯川が長く深いため息をつくのがわかった。さらに彼は小さくかぶりを振った。その表情がどこか悲しげであることに、石神は焦りを覚えた。
「アリバイは関係ない」湯川は静かにいった。
「えっ」
「草薙たちは容疑者のアリバイを崩すことに夢中だ。花岡靖子のアリバイの不十分な部分を突いていけば、もし彼女が犯人であれば、いずれ真相に到達できると信じている。君が共犯者なら、君のアリバイについても調べれば、君たちの牙城を崩せると思っている」
「おまえがなぜそんなことをいいだしたのか、俺にはさっぱりわからないんだが」石神は続けた。「刑事としては当然じゃないのかな、それは。君のいうように、もし彼女が犯人なら、という話だが」
すると湯川はまた少し口元を緩めた。
「草薙から面白い話を聞いた。君の試験問題の作り方についてだ。思い込みによる盲点をつく。たとえば幾何の問題に見せかけて、じつは関数の問題である、とか。なるほどと思った。数学の本質を理解しておらず、マニュアルに基づいて解くことに慣れている生徒には、その問題は有効だろう。一見、幾何の問題に見えるものだから、必死になってそっちの方向から解こうとする。だけど解けない。時間だけがどんどん過ぎていく。いじわるといえばいじわるだが、本当の実力を試すには効果的だ」
「何がいいたいんだ」
「草薙たちは」湯川は真顔に戻っていった。「今回の問題を、アリバイ崩しだと思い込んでいる。もっとも怪しい容疑者がアリバイを主張しているのだから、当然といえば当然だ。しかもそのアリバイには、いかにも崩せそうな気配がある。とっかかりが見つかれば、そこから攻めたくなるのが人情だ。僕たちが研究に取り組む時でもそうだ。ところがそのとっかかりが、じつは全くの的外れだったということも、研究の世界では往々にして起こる。草薙たちもまた、その罠にはまっている。いや、まんまとはめられているというべきかな」
「捜査方針に疑問があるのなら、俺にではなく、草薙刑事に進言すべきじゃないのか」
「もちろん。いずれはそうせざるをえない。だけど、その前に君に話しておきたい。その理由については、さっきいったとおりだ」
「友人だからというわけか」
「さらにいうなら、君の才能を失いたくないからだ。こんな面倒なことはさっさと片づけて、君には君のすべきことに取り組んでもらいたい。君の頭脳を無駄なことに費やしてほしくない」
「おまえにいわれなくても、俺は無駄なことに時間を浪費したりはしないよ」そういうと石神は再び歩きだした。しかしそれは学校に遅れるからではなく、その場に留まっているのが辛かったからだ。
湯川が後からついてきた。
「今回の事件を解決するには、アリバイ崩しの問題だと思ってはならない。全く別の問題だ。幾何と関数より、もっと違いは大きい」
「参考までに訊くんだが、じゃあ何の問題だというんだ」前を向いて歩きながら、石神はいった。
「それを一言でいうのは難しいが、強いていえばカムフラージュの問題ということになる。偽装工作だ。捜査陣は犯人たちの偽装に騙だまされている。彼等が手がかりだと思ったものは、すべて手がかりじゃない。ヒントを掴んだと思った瞬間、犯人の術中にはまるという仕掛けになっている」
「複雑そうだな」
「複雑さ。だけど、見方を少し変えるだけで、驚くほど簡単な問題になる。凡人が隠蔽工作を複雑にやろうとすると、その複雑さゆえに墓穴を掘る。ところが天才はそんなことはしない。極めて単純な、だけど常人には思いつかない、常人なら絶対に選ばない方法を選ぶことで、問題を一気に複雑化させる」
「物理学者は抽象的な表現は嫌うんじゃなかったのか」
「では具体的なことを少しだけ話そうか。時間は」
「まだ大丈夫だ」
「弁当屋に寄っている時間はあるのか」
石神はちらりと湯川を見てから、視線を前に戻した。
「毎日、あそこで弁当を買っているわけじゃない」
「そうなのか。僕が聞いたところでは、ほぼ毎日らしいんだが」
「おまえが俺と例の事件とを結びつける根拠はそれなのか」
「そのとおり、ともいえるし、少し違うともいえる。君が毎日同じ店で弁当を買ったって何とも思わないが、特定の女性に毎日会いに行っているとなれば、見過ごせない」
石神は足を止め、湯川を睨みつけた。
「昔の友人なら、何をいっても構わないと思ってるのか」
湯川は目をそらさない。石神の視線を真正面から受けとめる目には力が籠もっていた。
「本当に怒ったのか 心が穏やかでないのはわかるが」
「馬鹿馬鹿しい」石神は歩きだす。清洲橋が迫ったところで、手前の階段を上がり始めた。
「死体が見つかった現場から少し離れたところで、被害者のものと思われる衣服が燃やされていた」湯川がついてきながら話し始めた。「一斗缶の中から燃え残りが見つかったんだ。犯人がやったものと思われる。最初にそれを聞いた時、なぜ犯人は完全に燃え尽きるまでそこにいなかったのだろうと思った。草薙たちは、一刻も早くその場を立ち去りたかったのだろうと考えているようだが、それなら、とりあえず持ち去って、後でゆっくりと処分すればいいんじゃないかと思った。それとも犯人は、もっと早く燃え尽きると思ったんだろうか。そんなふうに考え始めると気になって仕方がない。そこで僕は実際に燃やしてみることにした」
石神はまた足を止めた。
「服を燃やしたのか」
「一斗缶の中でね。ジャンパー、セーター、ズボン、靴下ええと、それから下着か。古着屋で買ったんだけど、思わぬ出費だ。数学者と違って、我々は実験しないと気が済まない性格なんだ」
「それで結果は」
「有毒ガスを発しながら、じつによく燃えた」湯川はいった。「全部燃えた。あっという間だ。五分とかからなかったかもしれないな」
「それで」
「犯人はなぜその五分間を待てなかったんだろう」
「さあね」石神は階段を上がりきると、清洲橋通りで左に曲がった。べんてん亭とは逆方向だ。