には娘がいますが、その子にも気づかれぬよう、慎重に、かつ巧妙に連絡を取り合っていました」

    「具体的には」

    「それはいろいろと方法があります。それを先にお話ししたほうがいいですか」石神が窺う目をした。

    どうも奇妙だ、と草薙は感じていた。花岡靖子と秘密の関係にあったというのはじつに唐突だし、その背景も曖昧だ。しかし草薙としては、とにかく何があったのかを早く把握しておきたかった。

    「それについては後で伺いましょう。富樫さんとのやりとりについて、もう少し詳しく話してください。彼が花岡靖子さんの亭主だという話を、とりあえず信じたふりをした、というところまでお聞きしましたが」

    「彼は、花岡靖子がどこに出かけているか知らないか、と尋ねてきました。それで私はいったんです。彼女らは今、ここには住んでいない、仕事の都合で引っ越さざるをえなくなったとかで、少し前に出ていった、と。さすがに彼は驚いた様子でした。それで私に、今住んでいるところを知っているかと訊いてきました。知っている、と私は答えました」

    「どこだといったんですか」

    草薙の問いに、石神はにやりと笑った。

    「篠崎です。旧江戸川べりにあるアパートだと教えました」

    ここで篠崎が出てくるのか、と草薙は思った。

    「でもそれだけではわからんでしょう」

    「当然富樫は詳しい住所も知りたがりました。私は奴を待たせて部屋に入り、地図を見ながら住所をメモに書き留めました。その住所というのは、下水処理場のあるところです。そのメモを波すと、奴め、えらく喜んでいましたよ。助かったといっていました」

    「なぜそんなところの住所を」

    「それはもちろん、人気のない場所に奴を誘いだすためです。あそこの下水処理場付近の地理は、以前から頭に入っていたんです」

    「待ってください。するとあなたは、富樫さんに会った瞬間から、彼を殺すことを決めていたというんですか」質問しながら草薙は石神の顔を凝視した。驚くべき内容だった。

    「もちろん、そうです」石神は動じずに答えた。「さっきもいいましたように、私は花岡靖子を守らねばならないんです。彼女を苦しめる男が現れたら、一刻も早く排除する必要がある。それが私の役目です」

    「富樫さんは花岡さんを苦しめる、と確信していたのですか」

    「確信していたのではなく、知っていたのです。花岡靖子はあの男に苦しめられていました。あいつから逃げて、私の隣にやってきたのです」

    「そのことを花岡さんから直接聞いたのですか」

    「ですから、特殊な連絡方法によって知らされたのです」

    石神の口調には淀よどみがない。無論、ここへ出頭するまでに、頭の中を十分整理してきたに違いない。しかしその話には不自然なところが多い。少なくとも、今まで草薙が持っていた石神のイメージとはかけ離れていた。

    「メモを渡して、それからどうしたんですか」とりあえず話の続きを聞くことにした。

    「花岡靖子の勤め先を知っているか、と奴は訊いてきました。場所は知らないが飲食店だと聞いている、と私は答えました。さらに、仕事が終わるのは十一時頃で、それまでは娘も店で待っているらしい、と教えてやりました。もちろん、全部でたらめですが」

    「でたらめを教えた理由は」

    「奴の行動を制限するためです。いくら人気の少ない場所とはいえ、あまり早い時間に行かれても困りますからね。花岡靖子の仕事が十一時までで、それまでは娘も帰らないと聞けば、奴もそれまでアパートを訪ねていくわけにはいかんでしょう」

    「失礼」草薙は手を出して、彼の話を遮さえぎった。「あなたはそれだけのことを、その瞬間にすべて考えたというんですか」

    「そうです。それが何か」

    「いや咄嗟によくそれだけのことを考えられるなと感心しているんです」

    「大したことではないでしょう」石神は真顔に戻っていった。「奴はとにかく花岡靖子に会いたくて仕方がなかったわけです だからこっちとしては、その気持ちを利用してやるだけでいい。難しいことじゃない」

    「そりゃ、あなたにとってはそうかもしれないが」草薙は唇を舐めた。「で、その後は」

    「仕上げに私の携帯電話の番号を教えました。もしアパートが見つからなかったら連絡をくれ、といっておいたんです。ふつうそこまで親切にされたら、少しは怪しむものでしょうが、あの男は微塵みじんも疑っちゃいなかった。根本的に頭が悪いんでしょう」

    「初対面の人間にいきなり殺意を抱かれるとは、誰も考えませんよ」

    「初対面だからこそ、おかしいと思うべきなのです。ところがあの男は、でたらめな住所を書いたメモを大事そうにポケットに入れて、軽い足取りで立ち去りました。私はそれを確かめた後、部屋に入り、準備を始めました」

    そこまでしゃべってから、石神はおもむろに湯飲み茶碗に手を伸ばした。ぬるくなっているはずの茶を、彼はうまそうに飲んだ。

    「その準備とは」草薙は先を促した。

    「それほど大したものじゃありません。動きやすい格好に着替えて、時間が来るのを待ちました。その間、どうすれば確実に奴を殺せるか、考えました。いろいろな方法を検討した結果、絞殺を選びました。それが最も確実だと思ったからです。刺殺や撲殺だと、どんなふうに返り血を浴びるか予想できませんからね。一撃で仕留める自信もなかった。また絞殺なら、凶器も簡単です。とはいえ、丈夫なものでないといけないから、炬燵のコードを使うことにしました」

    「なぜコードだったんですか。丈夫な紐ならほかにいくらでもあると思いますが」

    「候補として、ネクタイや荷造り用のビニール紐なども考えました。しかしどちらも手の中で滑りやすいのです。また伸びるおそれもある。炬健のコードが一番でした」

    「するとそれを持って現場に」

    石神は頷いた。

    「十時頃、家を出ました。用意したものは凶器のほかに、カッターナイフ、使い捨てライターです。ただ、駅に向かう途中、ゴミ捨て場に青いビニールシートが捨ててあるのを見つけたので、それも畳んで持っていくことにしました。それから電車で瑞江駅まで行き、そこからタクシーを拾って、旧江戸川のそばまで行きました」

    「瑞江駅 篠崎ではなく」

    「篠崎なんかで降りて、もしあの男と鉢合わせしたらまずいでしょう」石神はさらりと答えた。「タクシーを降りたのも、あいつに教えた場所からはかなり離れたところです。とにかく気をつけなければならないことは、目的を果たす時まで、あいつに見つかってはならないということでした」

    「で、タクシーを降りてからは」

    「人目につかないよう注意しながら、あいつが現れるであろう場所を目指して歩きました。もっともそんなことを注意しなくても、ひとっこひとり歩いちゃいなかったのですが」

    石神はそういってまた茶を一口啜った。

    「私が堤防に到着して間もなく、携帯電話が鳴りました。あの男からでした。メモの住所の場所まで来たが、どうしてもアパートが見つからない、ということでした。私は、今どこにいるのかと尋ねました。あいつは丁寧に答えましたよ。私が電話で話しながら、近づいていっていることにも気づかずにね。私は、もう一度住所を調べてみるからちょっと待ってくれといって電話を切りましたが、その時には私はあいつの場所を確認していました。堤防の脇の草むらで、だらしなく座っていましたよ。私は足音をさせぬよう、ゆっくりと近づいていきました。あいつは全く気づきません。気づいたのは、私が真後ろに立った時です。しかしその時には、私は電気コードをあいつの首にかけていました。あいつは抵抗しましたが、思い切り絞めると、すぐにぐったりとしました。じつに簡単なものでした」石神は湯飲み茶碗に目を落とした。空だった。「おかわりをいただいてもいいですか」

    岸谷が立ち上がり、薬缶の茶を注いだ。どうも、と石神は頭を下げた。

    「被害者は体格がよく、まだ四十代ですよ。必死で抵抗されたら、そう簡単には絞められないと思いますが」草薙はいってみた。

    石神は無表情のまま、目だけを細めた。

    「私は柔道部の顧問です。後ろから襲いかかれば、相手が少々の大男でも、その動きを止めることは容易です」

    草薙は頷き、石神の耳に目を向けた。柔道家たちの勲章ともいえる、カリフラワー状態になっていた。同じような耳を持った者は、警察官にも多い。

    「殺した後は」草薙は訊いた。

    「やらなければならないことは、死体の身元を隠すことでした。身元がわかれば、必ず花岡靖子に疑いがかかると思いましたから。まず、服を脱がしました。持参してきたカッターナイフを使って、切りながら脱がしたんです。その後、顔を潰しました」石神は平坦な口調でいった。「大きめの石を拾ってきて、ビニールシートをかぶせた上から、何度か殴りました。回数は覚えていません。たぶん、十回ぐらいじゃないかと思います。それから使い捨てライターで指紋を焼きました。それだけのことをやった後、脱がせた服を持って、その場を離れました。ところが堤防を離れる時、ちょうど一斗缶が見つかったので、その中に衣類を入れ、燃やすことにしました。しかし思ったよりも火が大きく、こんなことをしていたら人が来るかもしれないと思い、まだ燃えている途中でしたが、急いで立ち去りました。バス通りまで歩いてタクシーを拾い、一旦東京駅に行ってから、別のタクシーに乗り換えて帰宅しました。アパートに着いた時には十二時を過ぎていたと思います」

    そこまでしゃべった後、石神はふうーっと太い吐息をついた。

    「私のやったことは以上です。使った電気コード、カッターナイフ、使い捨てライターは、すべて部屋にあります」

    岸谷が要点を記録していくのを横目で見ながら、草薙は煙草をくわえた。火をつけ、煙を吐きながら石神の顔を見つめる。石神は何の感情も想起させない目をしていた。

    彼の話に大きな疑問点はない。死体の様子や現場の状況も、警察が把握している内容と一致している。それらの多くは報道されていないことだから、作り話だと考えるほうが不自然だ。

    「あなたが殺したということを、花岡靖子さんに話しましたか」草薙は訊いた。

    「話すわけがないでしょう」石神は答えた。「そんなことをして、もし彼女が他人にしゃべったら大変ですからね。女というのは、なかなか秘密を守ってくれないものです」

    「では事件について彼女と話し合ったこともないのですか」

    「もちろんそうです。彼女との関係を、あなた方警察に気づかれてはまずいので、極力接触しないようにしてきました」

    「先程あなたは、花岡靖子さんと、誰にも気づかれない方法で連絡を取り合っていたといいましたよね。それはどういう方法ですか」

    「いくつかあります。一つは、彼女が話して聞かせてくれるのです」

    「ということは、どこかで会っていたということですか」

    「そんなことはしない。人目につくじゃないですか。彼女は自分の部屋で話すのです。それを私が機械を通じて聞きます」

    「機械」

    「私の部屋の壁に、彼女たちの部屋に向けて集音器を取り付けてあります。それを使うんです」

    岸谷が手を止めて顔を上げた。彼のいいたいことは草薙にもわかった。

    「それは盗聴、ですね」

    石神は心外そうに眉をひそめ、首を振った。

    「盗み聞きしているのではありません。彼女からの訴えを聞いているんです」

    「じゃあ、花岡さんはその機械の存在を知っているのですか」

    「機械のことは知らないかもしれない。でも、こちらの壁に向かって話しているはずです」

    「あなたに話しかけているというんですか」

    「そうです。もっとも、部屋には娘さんがいるから、あからさまに私に向けて話すということはできません。娘さんと会話しているように見せかけて、じつは私にメッセージを発してくれていたのです」

    草薙の指に挟んだ煙草が、半分以上灰になっていた。彼はそれを灰皿に落とした。岸谷と目が合った。後輩刑事は当惑した顔で首を捻っている。

    「花岡靖子さんがあなたにそういったのですか。娘と話しているように装って、じつはあなたに話しかけているのだと」

    「いわなくてもわかります。彼女のことなら何でも」石神は頷いた。

    「つまり、彼女がそういったわけではないのですね。あなたが勝手にそう思い込んでいるだけじゃないんですか」

    「そんなこと、あるわけがない」無表情だった石神が、わずかに色をなした。「別れた亭主に苦しめられていることも、彼女からの訴えによって知ったのです。彼女が娘にそんなことを訴えたって、何の意味もないじゃないですか。私に聞かせたくて、そういう話をしたのです。何とかしてくれと私に頼んでいたんですよ」

    草薙は彼をなだめるように手を動かし、もう一方の手で煙草の火を消した。

    「ほかにはどんな方法で連絡をとっていたんですか」

    「電話です。毎晩、電話をかけました」

    「彼女のところに」

    「彼女の携帯電話に、です。といっても、電話で話すわけではありません。私はただ呼出音を鳴らすだけです。もし彼女のほうに緊急の用がある場合は電話に出る。用がなければ、出ない。私は呼出音を五回聞いてから、電話を切るようにしていました。二人の間で、そのように決めてあったのです」

    「二人の間で ということは、そのことは彼女も承知していたと」

    「そうです。以前、そのように話し合って決めたのです」

    「では、花岡さんに確認してみましょう」

    「それがいい。そのほうが確実だ」自信に満ちた口調でいい、石神はぐいと顎を引いた。

    「今の話はこれから何度も聞かせてもらうことになります。正式な供述書を作るのもこれからですから」

    「ええ、何度でもしますよ。仕方のないことです」

    「最後に伺っておきたいのですが」草薙は机の上で指を組んだ。

    「なぜ出頭を」

    石神は大きく息を吸い込んだ。

    「出頭しないほうがよかったですか」

    「そんなことを訊いてるんじゃない。出頭するからには、それなりの理由なり、きっかけなりがあるでしょう。それを知りたいんです」

    すると石神はふんと鼻を鳴らした。

    「そんなこと、あなたの仕事には何の関係もないことでしょう。犯人が自責の念に駆られて出頭してきた、それでいいんじゃないんですか。それ以外の理由が必要ですか」

    「あなたを見ていると、自責の念に駆られているようには思えないんですが」

    「罪の意識があるか、と問われれば、少し違うといわざるをえないでしょう。でも私は後悔している。あんなことをしなければよかった。あんなふうに裏切られるとわかっていたなら、人殺しなんかしなかった」

    「裏切られる」

    「あの女は花岡靖子は」石神は顎を少し上げて続けた。「私を裏切ったんです。ほかの男と付き合おうとしている。私が元の亭主を始末してやったというのに。彼女から悩みを聞かされていなければ、あんなことはしなかった。彼女は前に話していたんですよ。あんな男、殺してやりたい、とね。私は彼女の代わりに殺したんだ。いわば、彼女だって共犯なんだ。警察は、花岡靖子も逮捕すべきです」

    石神の話の裏づけを取るために、彼の部屋が捜索されることになった。その間草薙は岸谷と共に、花岡靖子から話を聞くことにした。彼女はすでに帰宅していた。美里も一緒だったが、別の刑事が彼女を外に連れ出した。刺激的な話を聞かせたくないからではなく、美里にも事情聴取が行われるのだ。

    石神が出頭したことを知ると、靖子は大きく目を見張り、息を止めた。声を出せないでいた。

    「意外でしたか」草薙は彼女の表情を観察しながら訊いた。

    靖子はまず首を振り、それからようやく口を開いた。

    「思ってもみませんでした。だって、どうしてあの人が富樫を」

    「動機に心当たりはありませんか」

    草薙の問いかけに、靖子は迷うような躊躇うような、複雑な表情を見せた。口に出したくない何かがあるように見えた。

    「石神はあなたのためにやったといっています。あなたのために殺したと」

    靖子は辛そうに眉をひそめ、はあーっと大きく息を吐いた。

    「やはり思い当たることがあるようですね」

    彼女は小さく頷いた。

    「あの人があたしに特別な感情を持っているらしいことはわかっていました。でもまさか、そんなことをするなんて」

    「彼は、あなたとはずっと連絡を取り合っていたというんですがね」

    「あたしが」靖子は表情を険しくした。「そんなことしてません」

    「でも、電話はあったでしょ。しかも毎晩」

    草薙は石神の話を靖子に聞かせた。彼女は顔を歪めた。

    「あの電話をかけてたのは、やっぱりあの人だったんですか」

    「知らなかったんですか」

    「そうじゃないか、と思ったことはありますけど、確信はありませんでした。だって名乗らなかったから」