複雑な気持ちが彼女の胸中を支配していた。しかし彼が生き返らないことは確実のようだった。
「こいつが悪いんだよ」美里は足を曲げ、両膝を抱えた。その間に顔を埋め、すすり泣きを始めた。
どうしよう。靖子がもう一度呟きかけた時だった。ドアホンが鳴った。彼女は驚きのあまり、痙攣けいれんするように全身を震わせた。
美里も顔を上げた。今度は頬が涙で濡れていた。母娘は目を合わせた。お互いが相手に問いかけていた。こんな時に誰だろう。
続いてドアをノックする音がした。そして男の声。「花岡さん」
聞いたことのある声だった。しかし誰かは咄嗟とっさに思い出せない。靖子は金縛りにあったように動けなかった。娘と顔を見合わせ続けた。
再びノックされた。「花岡さん、花岡さん」
ドアの向こうの人間は、靖子たちが部屋にいることを知っているようだ。出ていかないわけにはいかなかった。だがこの状態ではドアを開けられない。
「あんたは奥にいなさい。襖を閉めて、絶対に出てきちゃだめ」靖子は小声で美里に命じていた。ようやく思考力を取り戻しっつあった。
またしてもノックの音。靖子は大きく息を吸い込んだ。
「はあい」平静を装った声を出した。必死の演技だった。「どなた」
「あ、隣の石神です」
それを聞き、靖子はどきりとした。先程から自分たちのたてている物音は、尋常なものではなかったはずだ。隣人が不審に思わないはずはなかった。それで石神も様子を窺うかがう気になったのだろう。
「はあい、ちょっと待ってくださあい」日常的な声を発したつもりだったが、うまくいったかどうかは靖子自身にはわからなかった。
美里は奥の部屋に入り、すでに襖を閉めていた。靖子は富樫の死体を見た。これを何とかしなければならない。
ホーム炬燵の位置が大きくずれていた。コードを引っ張ったせいだろう。彼女は炬燵をさらに動かし、その布団で死体を覆い隠した。位置がやや不自然だが、やむをえない。
靖子は自分の身なりに異状がないことを確かめてから、靴脱ぎに下りた。富樫の汚れた靴が目に留まった。彼女はそれを下駄箱の下に押し込んだ。
音をたてぬように、そっとドアチェーンを繋いだ。鍵はかかっていなかった。石神に開けられなくてよかったと胸を撫で下ろした。
ドアを開けると、石神の丸く大きな顔があった。糸のように細い目が靖子に向けられていた。彼は無表情だった。それが不気味に感じられた。
「ああの何でしょうか」靖子は笑いかけた。頬が引きつるのがわかった。
「すごい音がしたものですから」石神は相変わらず感情の読みにくい顔でいった。「何かあったんですか」
「いえ、別に何でも」彼女は大きくかぶりを振った。「すみません、御迷惑をおかけしちゃって」
「何もなければいいんですが」
石神の細い目が室内に向けられているのを靖子は見た。全身が、かっと熱くなった。
「あの、ゴキブリが」彼女は思いついたことを口走っていた。
「ゴキブリ」
「ええ。ゴキブリが出たものですから、その娘と二人で退治しようとそれで大騒ぎしちゃったんです」
「殺したんですか」
「えっ」石神の問いに、靖子は顔を強張こわばらせた。
「ゴキブリは始末したんですか」
「あはい。それはもうちゃんと。もう大丈夫です。はい」靖子は何度も頷いた。
「そうですか。もし私で何かお役に立てることがあればいってください」
「ありがとうございます。うるさくして、本当に申し訳ありませんでした」靖子は頭を下げ、ドアを閉めた。鍵もかけた。石神が自分の部屋に戻り、ドアを閉める音を聞くと、ふうーっと大きく吐息をついた。思わずその場にしゃがみこんだ。
背後で襖の開く音がした。続いて、おかあさん、と美里が声をかけてきた。
靖子はのろのろと立ち上がった。炬燵の布団の膨らみを見て、改めて絶望を感じた。
「仕方ないね」彼女はようやくいった。
「どうする」美里が上目遣いで母親を見つめてくる。
「どうしようもないものね。警察に電話するよ」
「自首するの」
「だって、そうするしかないもの。死んじゃった者は、もう生き返らないし」
「自首したら、おかあさんはどうなる」
「さあねえ」靖子は髪をかきあげた。頭が乱れていたことに気づいた。隣の数学教師は変に思ったかもしれない。しかしもはやどうでもいいことだと思った。
「刑務所に人らなきゃいけないんじゃないの」娘がなおも訊いてくる。
「そりゃあ、たぶん、ね」靖子は唇を緩めていた。諦めの笑みだった。「何しろ、人を殺しちゃったんだもの」
美里は激しくかぶりを振った。「そんなのおかしいよ」
「どうして」
「だって、おかあさんは悪くないのに。全部、こいつが悪いんじゃない。もう今は関係ないはずなのに、いつまでもおかあさんやあたしを苦しめて。こんなやつのために、刑務所になんて入らなくていいよ」
「そんなこといったって、人殺しは人殺しだから」
不思議なことに、美里に説明しているうちに靖子の気持ちは落ち着いてきた。物事を冷静に考えられるようにもなってきた。すると、ますます自分にはほかに選ぶ道はないと思えてきた。美里を殺人犯の娘にはしたくない。しかしその事実から逃れられないのなら、せめていくらかでも世間から冷たく見られないで済む道を選ばねばならない。
靖子は部屋の隅に転がっているコードレスホンに目を向けた。それに手を伸ばした。
「だめだよっ」美里が素早く駆け寄ってきて、母親の手から電話機を奪おうとした。
「離しなさい」
「だめだって」美里は靖子の手首を掴んできた。バドミントンをしているせいか、力は強かった。
「お願いだから離して」
「いやだ、おかあさんにそんなことさせない。だったら、あたしが自首する」
「何を馬鹿なこといってるの」
「だって、最初に殴ったのはあたしだもん。おかあさんはあたしを助けようとしただけだもん。あたしだって途中からおかあさんを手伝ったし、あたしも人殺しだよ」
美里の言葉に、靖子はぎくりとした。その瞬間、電話を持つ手の力が緩んだ。美里はその機を逃さず、電話を奪った。隠すように抱きかかえると、部屋の隅に行き、靖子に背中を向けた。
警察は――靖子は思考を巡らせた。
刑事たちは果たして自分の話を信じてくれるだろうか。自分が一人で富樫を殺したのだという供述に疑問を差し挟んでこないだろうか。何もかも鵜呑うのみにしてくれるだろうか。
警察は徹底的に調べるに違いない。テレビドラマで、「裏づけをとる」という台詞せりふを聞いたことがある。犯人の言葉が真実かどうかを、あらゆる方法を使って確認するのだ。聞き込み、科学捜査、その他諸々――。
目の前が暗くなった。靖子は刑事からどんなに嚇おどされても、美里のやったことをしゃべらない自信はある。しかし刑事たちが突き止めてしまえばおしまいだ。娘だけは見逃してくれと懇願したところで聞き入れられるはずがない。
自分一人で殺したように偽装できないものかと靖子は考えたが、すぐにそれを放棄した。素人が下手な小細工をしたところで、簡単に見破られそうな気がした。
とはいえ、美里だけは守らねばならない、と靖子は思った。自分のような女が母親であるがため、幼い頃から殆どいい思いをしたことがないこのかわいそうな娘だけは、命に替えてもこれ以上不幸にしてはならない。
ではどうすればいいだろう。何かいい方法があるだろうか。
その時だった。美里が抱えていた電話が鳴りだした。美里は大きく目を開けて靖子を見た。
靖子は黙って手を出した。美里は迷った顔をした後、ゆっくりと電話機を差し出した。
呼吸を整えてから、靖子は通話ボタンを押した。
「はい、もしもし、花岡ですけど」
「あの、隣の石神です」
「あ」またあの教師だ。今度は何の用だろう。「何でしょうか」
「いや、あの、どうされるのかなと思いまして」
何を訊かれているのかわからなかった。
「何がですか」
「ですから」石神は少し間を置いてから続けた。「もし警察に届けるということでしたら、何もいいません。でも、もしそのつもりがないのなら、何かお手伝いできることがあるんじゃないかと思いまして」
「えっ」靖子は混乱した。この男は一体何をしゃべっているのだ。
「とりあえず」石神が抑えた声でいった。「今からそちらにお伺いしてもいいですか」
「えっ、いえ、それはあの、困ります」靖子の全身から冷や汗が吹き出した。
「花岡さん」石神が呼びかけてきた。「女性だけで死体を始末するのは無理ですよ」
靖子は声を失った。なぜこの男は知っているのだ。
聞こえたのだ、と彼女は思った。先程からの美里とのやりとりが隣に聞こえたに違いない。いやもしかしたら、富樫と揉み合った時から聞こえていたのかもしれない。
もうだめだ、と彼女は観念した。逃げ道などどこにもない。警察に自首するしかない。美里が関わっていることは、何としてでも隠し続けよう。
「花岡さん、聞いておられますか」
「あ、はい。聞いています」
「そちらに行ってもいいですか」
「えっ、でも」電話を耳に当てたまま靖子は娘を見た。美里は怯えと不安の入り交じった顔をしていた。母親が誰と何の話をしているのか、不思議に思っているのだろう。
もし石神が隣で聞き耳を立てていたのなら、美里が殺人に無関係でないことも知っているわけだ。彼が警察にそのことを話せば、靖子がどんなに否認したところで、刑事は信用してくれないだろう。
靖子は腹をくくった。
「わかりました。あたしからお願いしたいこともありますので、じゃあ、ちょっと来ていただけますか」
「はい。今すぐに行きます」石神はいった。
靖子が電話を切ると同時に美里が訊いてきた。「誰から」
「隣の先生よ。石神さん」
「どうしてあの人が」
「説明は後でするから、あんたは奥にいなさい。襖も閉めて。早く」
美里はわけがわからないという顔で奥の部屋に行った。彼女が襖を閉めるのとほぼ同時に、隣の部屋から石神が出てくる物音が聞こえた。
やがてドアホンが鳴った。靖子は靴脱ぎに下り、ドアの鍵とチェーンを外した。
ドアを開けると石神が神妙な顔つきで立っていた。なぜか紺色のジャージ姿だった。さっきはこんなものは着ていなかった。
「どうぞ」
「お邪魔します」石神は一礼して入ってきた。
靖子が鍵をかけている間に彼は部屋に上がり、何のためらいも見せずに炬燵の布団を剥がした。そこに死体があることを確信しているような動きだった。
彼は片膝をついた格好で富樫の死体を眺めていた。何事かをじっと考えている表情だ。その手に軍手がはめられていることに、靖子は気づいた。
靖子はおそるおそる死体に目を向けた。富樫の顔からはすっかり精気が消えていた。唇の下で涎とも汚物ともつかぬものが乾いて固まっている。
「あのやっぱり聞こえたんですか」靖子は訊いてみた。
「聞こえた 何がですか」
「だから、あたしたちのやりとりです。それで、電話をかけてこられたんでしょう」
すると石神は無表情な顔を靖子に向けてきた。
「いや、話し声は何も聞こえませんでしたよ。このアパート、案外防音だけはしっかりしてるんです。それが気に入って、ここに決めたぐらいですから」
「じゃあどうして」
「事態に気づいたのか、ですか」
ええ、と靖子は頷いた。
石神は部屋の隅を指差した。空き缶が転がっている。その口から灰がこぼれ出ていた。
「さっき伺った時、まだ煙草の臭いが残ってました。だからお客さんがいるのかなと思ったのですが、それらしき履き物がなかった。そのくせ炬燵の中に誰かいるようでした。コードも挿さずにね。隠れるのだとしたら奥の部屋がある。つまり炬燵の中の人物は隠れているのではなく隠されている、ということになる。その前の暴れたような物音や、あなたの髪が珍しく乱れていたことを踏まえれば、何が起きたのかは想像がつきます。それからもう一つ、このアパートにはゴキブリは出ません。長年住んでいる私がいうのだからたしかです」
表情を変えずに淡々と語る石神の口元を、靖子は茫然と見つめていた。この人はきっと学校でもこんな調子で生徒に説明しているに違いない、と、まるで関係のない感想が浮かんだ。
石神からじっと見られていることに気づき、彼女は目をそらした。自分のことも観察されているような気がした。
恐ろしく冷静で頭のいい人なのだ、と思った。そうでなければ、ドアの隙間からちらりと見ただけで、これだけの推理を組み立てられるはずがない。だが同時に靖子は安堵していた。どうやら石神は、出来事の詳細を知っているわけではなさそうだ。
「別れた夫なんです」彼女はいった。「離婚して何年も経つのに、未いまだにつきまとってくるんです。お金を渡さないと帰ってくれなくて。今日もそんなふうでした。もう我慢ができなくて。それでかっとなって」そこまでしゃべり、後は俯うつむいた。富樫を殺した時の様子は話せなかった。あくまでも美里は無関係だということにしなければならない。
「自首するつもりですか」
「そうするしかないと思います。関係のない美里は本当にかわいそうなんですけど」
彼女がそこまでしゃべった時、襖が勢いよく開いた。その向こうに美里が立っていた。
「そんなのだめだよ。絶対にだめだからね」
「美室、あんたは黙ってなさい」
「いやだ。そんなのいやだ。おじさん、聞いてよ。この男を殺したのはね――」
「みさとっ」靖子は声を上げた。
美里はびくっと顎を引き、恨めしそうに母親を睨んだ。目が真っ赤だった。
「花岡さん」石神が抑揚のない声を出した。「私には隠さなくていいです」
「何も隠してなんか」
「あなた一人で殺したのでないことはわかっています。お嬢さんも手伝ったんでしょう」
靖子はあわてて首を横に振った。
「何をいうんですか。あたし一人でやったことです。この子はついさっき帰ってきたところで。あの、あたしが殺した後、すぐに帰ってきたんです。だから、何も関係ないんです」
だが石神が彼女の言葉を信じている様子はなかった。吐息をつき、美里のほうを見た。
「そういう嘘をつくのは、お嬢さんが辛いと思うけどなあ」
「嘘じゃないです。信じてください」靖子は石神の膝に手を置いた。
彼はその手をじっと見つめた後、死体に目を向けた。それから小さく首を捻った。
「問題は警察がどう見るか、です。その嘘は通用しないと思いますよ」
「どうしてですか」そういってから、こんなふうに訊くこと自体、嘘を認めたようなものだと靖子は気づいた。
石神は死体の右手を指差した。
「手首や手の甲に内出血の痕がある。よく見ると指の形をしている。おそらくこの男性は後ろから首を絞められて、必死でそれを外そうとしたんでしょう。それをさせまいとして、彼の手を掴んだ痕だと思われます。一目瞭然というやつです」
「だからそれもあたしがやったんです」
「花岡さん、それは無理ですよ」
「どうしてですか」
「だって、後ろから首を絞めたんでしょう その上で彼の手を掴むなんてことは絶対にできません。腕が四本必要になってくる」
石神の説明に、靖子は返す言葉を失った。出口のないトンネルに入ったような気分だ。
彼女はがっくりと項垂うなだれた。一瞥いちべつしただけの石神がここまで見抜けるのだから、警察ならばさらに厳密に調べ抜くだろう。
「あたし、どうしても美里だけは巻き込みたくないんです。この子だけは助けたい」
「あたしだって、おかあさんを刑務所に入れたくないよ」美里が泣き声でいった。
靖子は両手で顔を覆った。「一体どうしたら」
空気がずっしりと重くなったような気がした。その重みに靖子は潰されそうだった。
「おじさん」美里が口を開いた。「おじさんは、おかあさんに自首を勧めにきたんじゃないの」
石神は一拍置いてから答えた。
「私は花岡さんたちの力になれればと思って電話したんだよ。自首するということなら、それでいいと思うけど、もしそうでないなら、二人だけじゃ大変だろうと思ってね」
彼の言葉に、靖子は顔から手を離した。そういえば電話をかけてきた時、この男は妙なことをいった。女性だけで死体を始末するのは無理ですよ――。
「自首しないで済む方法って、ありますか」美里がさらに訊いた。
靖子は顔を上げた。石神は小さく首を傾かしげていた。その顔に動揺の色はない。
「事件が起きたことを隠すか