、事件とお二人の繋がりを切ってしまうか、のどちらかだね。いずれにしても死体は始末しなければならない」

    「できると思いますか」

    「美里」靖子はたしなめた。「何をいってるの」

    「おかあさんは黙ってて。ねえ、どうですか、できますか」

    「難しいね。でも、不可能じゃない」

    石神の口調は相変わらず無機質だった。だがそれだけに理論的裏づけがあるように靖子には聞こえた。

    「おかあさん」美里がいった。「おじさんに手伝ってもらおうよ。それしかないよ」

    「でも、そんなこと」靖子は石神を見た。

    彼は細い目をじっと斜め下に向けている。母娘が結論を出すのを、静かに待っているという感じだった。

    靖子は小代子から聞いた話を思い出していた。それによれば、この数学教師は靖子のことが好きらしい。彼女がいることを確かめてから弁当を買いに来るのだという。

    もしその話を聞いていなければ、石神の神経を疑っているところだ。どこの世界に、さほど親しくもない隣人を、ここまで助けようとする人間がいるだろう。下手をすれば自分も逮捕されることになるのだ。

    「死体を隠しても、いつかは見つかるんじゃないでしょうか」靖子はいった。この一言が、自分たちの運命を変える一歩だと彼女は気づいていた。

    「死体を隠すかどうかはまだ決めていません」石神は答えた。「隠さないほうがいい場合もありますから。死体をどうするかは、情報を整理してから決めるべきです。はっきりしているのは、死体をこのままにしておくのはまずいということだけです」

    「あの、情報って」

    「この人に関する情報です」石神は死体を見下ろした。「住所、氏名、年齢、職業。ここへは何をしに来たのか。この後、どこへ行くつもりだったのか。家族はいるのか。あなたが知っているかぎりのことを教えてください」

    「あ、それは」

    「でもその前に、まず死体を移しましょう。この部屋は一刻も早く掃除をしたほうがいい。犯行の痕跡が山のように残っているでしょうから」いい終わるや否や、石神は死体の上半身を起こし始めた。

    「えっ、でも、移すって、どこに」

    「私の部屋です」

    決まってるじゃないかという顔で答えると、石神は死体を肩に担ぎあげた。ものすごい力だった。紺色のジャージの端に、柔道部、と書いた布が縫いつけられているのを靖子は見た。

    石神は床に散らばったままの数学関連の書籍を足で払いのけ、ようやく畳の表面が見えたスペースに死体を下ろした。死体は目を開けていた。

    彼は入り口で立ち尽くしている母娘のほうを向いた。

    「お嬢さんには部屋の掃除を始めてもらおうかな。掃除機をかけて。なるべく丁寧に。おかあさんは残ってください」

    美里は青ざめた顔で頷くと、母親をちらりと見てから隣の部屋に戻った。

    「ドアを閉めてください」石神は靖子にいった。

    「あはい」

    彼女はいわれたとおりにした後も、靴脱ぎで佇たたずんでいる。

    「とりあえず上がってください。おたくと違って散らかってますが」

    石神は椅子に敷いてあった小さな座布団をはがし、死体のすぐ横に置いた。靖子は部屋に上がったが、座布団には座ろうとせず、死体から顔をそむけるように部屋の隅に腰を下ろした。その様子から、石神は彼女が死体を恐れているのだとようやく気づいた。

    「あっ、どうも失礼」彼は座布団を手にし、彼女のほうに差し出した。「どうぞ、使ってください」

    「いえ、大丈夫です」彼女は俯いたまま小さく首を振った。

    石神は座布団を椅子に戻し、自分は死体の脇に座った。

    死体の首には赤黒い帯状の痕がついていた。

    「電気のコードですか」

    「えっ」

    「首を絞めたものです。電気のコードを使ったんじゃないんですか」

    「あそうです。炬燵のコードを」

    「あの炬燵ですね」死体にかぶせてあった炬燵布団の柄を石神は思い出していた。「あれは処分したほううがいいでしょう。まあ、それは後で私が何とかしましょう。ところで――」石神は死体に目を戻した。「今日、この人と会う約束をしていたんですか」

    靖子はかぶりを振った。

    「してません。昼間、急に店に来たんです。それで夕方、店の近くのファミリーレストランで会いました。その時は一旦別れたんですけど、後になって家に訪ねてきたんです」

    「ファミリーレストランですか」

    目撃者はいない、と期待する材料は何もないと石神は思った。

    彼は死体のジャンパーのポケットに手を入れた。丸めた一万円札が出てきた。二枚あった。

    「あっ、それはあたしが」

    「渡したものですか」

    彼女が頷くのを見て、石神はその金を差し出した。しかし彼女は手を出そうとしない。

    石神は立ち上がり、壁に吊してある自分の背広の内ポケットから財布を出した。そこから二万円を取り出し、代わりに死体が持っていた札を入れた。

    「これなら気味悪くないでしょう」彼は自分の財布から出した金を靖子に見せた。

    彼女は少し躊躇う素振りを見せた後、ありがとうございます、と小声でいいながら金を受けとった。

    「さて、と」

    石神は再び死体の洋服のポケットを探り始めた。ズボンのポケットから財布が出てきた。中には少しばかりの金と免許証、レシートなどが入っていた。

    「富樫慎二さんか。住所は新宿区西新宿、と。今もここに住んでるってことでしたか」免許証を見てから彼は靖子に尋ねた。

    彼女は眉を寄せ、首を傾げた。

    「わかりませんけど、たぶん違うと思います。西新宿に住んでたこともあったようですけど、家賃が払えなくて部屋を追い出された、という意味のことを聞きましたから」

    「免許証自体は去年更新されていますが、すると住民票は移さず、どこかに住処すみかを見つけたということになりますが」

    「あちこち転々としていたんじゃないでしょうか。定職もなかったから、まともな部屋は借りられなかったと思います」

    「そのようですね」石神はレシートのひとつに目を留めた。

    レンタルルーム扇屋、とある。金額は二泊分で五六〇〇円前払いする方式らしい。石神は暗算して、一泊が二八〇〇円と弾きだした。

    彼はそれを靖子にも見せた。

    「ここに泊まっているようです。でもチェックアウトしなければ、いずれは宿の者が部屋を開けます。宿泊客がいなくなっているということで、警察に届けるかもしれませんね。まあ、もしかしたら面倒なのでほうっておく可能性もあります。そういうことがしばしばあるから前払いなのでしょうし。でも、希望的に考えるのは危険です」

    石神はさらに死体のポケットを探る。鍵が出てきた。丸い札がついていて、305という数字が刻み込まれている。

    靖子はぼんやりとした目で鍵を見つめている。今後どうすればいいのか、彼女自身にはこれといった考えはないように見えた。

    隣の部屋からかすかに掃除機の音が聞こえてくる。美里が懸命に掃除をしているのだろう。これからどうなるのかまるでわからないという不安の中、せめて自分のできることをしようと掃除機をかけているに違いない。

    自分が守らねばならない、と石神は改めて思った。自分のような人間がこの美しい女性と密接な関わりを持てることなど、今後一切ないに違いないのだ。今こそすべての知恵と力を総動員して、彼女たちに災いが訪れるのを阻止しなければならない。

    石神は死体となった男の顔を見た。表情は消え、のっぺりとした印象を受ける。それでもこの男が若い頃は美男子の部類に入ったであろうことは容易に想像できた。いや、中年太りこそしているが、今でも女性から好まれる風貌だったに違いない。

    こういう男に靖子は惚れたのだなと石神は思い、小さな泡が弾けるように嫉妬心が胸に広がった。彼は首を振った。そんな気持ちが生まれたことを恥じた。

    「この人が定期的に連絡をとっているとか、そういう親しい人はいますか」石神は質問を再開をした。

    「わかりません。本当に、今日久しぶりに会ったものですから」

    「明日の予定とかは聞きませんでしたか。誰かに会うとか」

    「聞いておりません。どうもすみません。何にも役に立てなくて」靖子は申し訳なさそうに項垂れた。

    「いや、一応伺っただけです。御存じないのは当然ですから、気にしないでください」

    石神は軍手をはめたまま死体の頬を鷲掴みにし、口の中を覗き込んだ。奥歯に金冠がかぶせられているのが見えた。

    「歯の治療痕あり、か」

    「あたしと結婚している時に、歯医者に通ってました」

    「何年前ですか」

    「離婚したのは五年前ですけど」

    「五年、か」

    カルテが残っていないと期待するわけにはいかないと石神は思った。

    「この人に前科は」

    「なかったと思います。あたしと別れてからは知りませんけど」

    「あったかもしれないわけですね」

    「ええ」

    仮に前科はなくても、交通違反で指紋を採られたことぐらいはあるだろう。警察の科学捜査が交通違反者の指紋照合にまで及ぶかどうか石神は知らなかったが、考慮しておくに越したことはない。

    死体をどう処置したところで、身元が判明することは覚悟しなければならなかった。とはいえ時間稼ぎは必要だ。指紋と歯型は残せない。

    靖子がため息をついた。それは官能的な響きとなって石神の心を揺さぶった。彼女を絶望させてはならないと決意を新たにした。

    たしかに難問だった。死体の身元が判明すれば、警察は間違いなく靖子のところへやってくる。刑事たちの執拗な質問攻めに彼女たち母娘は耐えられるか。脆弱ぜいじゃくな言い逃れを用意しておくだけでは、矛盾点をつかれた途端に破綻が生じ、ついにはあっさりと真実を吐露してしまうだろう。

    完璧な論理、完璧な防御を用意しておかねばならない。しかも今すぐにそれらを構築しなければならない。

    焦るな、と彼は自分自身にいい聞かせた。焦ったところで問題解決には至らない。この方程式には必ず解はある――。

    石神は瞼を閉じた。数学の難問に直面した時、彼がいつもすることだった。外界からの情報をシャットアウトすれば、頭の中で数式が様々に形を変え始めるのだ。しかし今彼の脳裏にあるのは数式ではない。

    やがて彼は目を開いた。まず机の上の目覚まし時計を見る。八時三十分を回っていた。次にその目を靖子に向けた。彼女は息を呑む気配を見せ、後ろにたじろいだ。

    「脱がすのを手伝ってください」

    「えっ」

    「この人の服を脱がせます。ジャンパーだけでなく、セーターもズボンも脱がせます。早くしないと死後硬直が始まってしまう」そういいながら石神は早くもジャンパーに手をかけていた。

    「あ、はい」

    増子も手伝い始めたが、死体に触れるのが嫌なのか、指先がふるえている。

    「いいです。ここは私がやります。あなたはお嬢さんを手伝ってやりなさい」

    「ごめんなさい」靖子は俯き、ゆっくりと立ち上がった。

    「花岡さん」彼女の背中に石神は呼びかけた。振り向いた彼女にいった。「あなた方にはアリバイが必要です。それを考えていただきます」

    「アリバイ、ですか。でも、そんなのはありませんけど」

    「だから、これから作るんです」石神は死体から脱がせたジャンパーを羽織った。「私を信用してください。私の論理的思考に任せてください」

    3

    「君の論理的思考とはどういうものなのか、一度じっくり分析してみたいね」

    退屈そうに頬杖をついてそういってから、湯川学はわざとらしい大欠伸あくびをした。小さめのメタルフレームの眼鏡は外して脇に置いてある。いかにも、もう必要ないといわんばかりだ。

    しかし事実そうなのかもしれない。草薙くさなぎは先程から目の前のチェス盤を二十分以上睨んでいるが、どう考えても打開策は見えてこなかった。キングの逃げ道はなく、窮鼠きゆうそ猫を噛むとばかりにがむしゃらに攻撃する術すべもない。いろいろと手は思いつくが、それらのすべてが何手も前に封じられていることに気づくのだった。

    「チェスってのはどうも性に合わないんだよな」草薙は呟いた。

    「また始まった」

    「大体、敵からわざわざ奪った駒を使えないってどういうことなんだ。駒は戦利品だろ。使ったっていいじゃないか」

    「ゲームの根幹にけちをつけてどうするんだ。それに駒は戦利品じゃない。駒は兵士だ。奪うということは命を取るということだ。死んだ兵士を使うことなんてできないだろ」

    「将棋は使えるのにさ」

    「将棋を考えた人の柔軟さには敬意を表するよ。あれはおそらく、駒を奪うという行為に敵の兵士を殺すのではなく降伏させる、という意味を込めているんだろうな。だから再利用できるわけだ」

    「チェスもそうすりゃいいのにさ」

    「寝返りというのは騎士道精神に反するんだろ。そんな屁理屈ばかりいってないで、論理的に戦況を見つめろよ。君は駒を一度しか動かせない。そして君が動かせる駒は極めて少なく、どれを動かしても僕の次の手を止めることはできない。で、僕がナイトを動かせばチェックメイトだ」

    「やめた。チェスはつまんねえ」草薙は大きく椅子にもたれかかった。

    湯川は眼鏡をかけ、壁の時計に目をやった。

    「四十二分かかったな。まあ、殆ど君が一人で考えてたんだが。それより、こんなところで油を売っていて大丈夫なのかい。堅物の上司に叱られないのか」

    「ストーカー殺人がやっと片づいたところなんだ。ちょっとは骨休みさせてもらわないとさ」草薙は薄汚れたマグカップに手を伸ばした。湯川がいれてくれたインスタントコーヒーはすっかり冷たくなっている。

    帝都大学物理学科の第十三研究室には、湯川と草薙以外には誰もいなかった。学生たちは講義を受けに行ったという。もちろんそれをわかっているから、草薙もこの時間を選んで寄り道しているのだ。

    草薙のポケットで携帯電話が鳴りだした。湯川が白衣を羽織りながら苦笑を浮かべた。

    「ほら、早速お呼びらしいぜ」

    草薙は渋面を作り、着信表示を見た。湯川のいうとおりのようだ。かけてきているのは同じ班に所属の後輩刑事だった。

    現場は旧江戸川の堤防だった。近くに下水処理場が見える。川の向こうは千葉県だ。どうせなら向こうでやってくれりゃよかったのにと草薙はコートの襟を立てながら思った。

    死体は堤防の脇に放置されていた。どこかの工事現場から持ってきたと思われる青いビニールシートがかけられていた。

    発見したのは堤防をジョギングしていた老人だった。ビニールシートの端から人間の足のようなものが出ていたので、おそるおそるシートをめくってみたのだという。

    「じいさんの歳は七十五だっけ。この寒空によく走るよ。だけどその歳になって嫌なもんを見ちまったもんだなあ。心の底から同情するよ」

    一足先に着いていた岸谷という後輩刑事から状況を教わり、草薙は顔をしかめた。コートの裾がはためいている。

    「岸やん、死体は見たのかい」

    「見ました」岸谷は情けなく口元を歪めた。「よく見とけよって班長にいわれたもんですから」

    「あの人、いつもそうなんだよなあ。自分は見ないくせにさ」

    「草薙さん、見ないんですか」

    「見ないよ。そんなもの見たって仕方ないだろ」

    岸谷の話によれば、死体はむごたらしい状態で放置されていたらしい。まず全裸で、靴も靴下も脱がされていた。さらに顔が潰されていた。スイカを割ったようだと岸谷は表現し、それを聞いただけで草薙は気分が悪くなった。また、死体の手の指は焼かれ、指紋が完全に破壊されていたという。

    死体は男性だった。首には絞殺の痕が見てとれた。それ以外には外傷らしさものはないようである。

    「鑑識さんたちが何か見つけてくれねえかなあ」周辺の草むらを歩きながら草薙はいった。周りの目があるので、犯人の遺留品を探すふりをしているのだ。しかし本音をいえば、その道のプロに頼っている。自分が何か重大なものを見つけられるとは、あまり思っていない。

    「そばに自転車が落ちていたんです。すでに江戸川署に運ばれましたが」

    「自転車 誰かが捨てていった粗大ゴミだろ」

    「でも、それにしては新しいんです。ただ、タイヤは両輪ともパンクさせられていました。意図的に釘か何かで刺したように見えます」

    「ふうん。被害者のものかな」

    「それは何とも。登録番号がついてましたから、持ち主がわかるかもしれません」

    「被害者のものであってほしいなあ」草薙はいった。「そうでなかったら、かなり面倒臭いことになるぜ。天国と地獄だよ」

    「そうですか」

    「岸やん、身元不明死体は初めて」

    「はあ」

    「だって考えてもみろよ。顔や指紋を潰したってことは、犯人が被害者の身元を隠したかったわけだろ。逆にいえば、被害者の身元がわかれば犯人の目星も簡単につくってことさ。