間宮に訊いた。

    「そうだな。事件に関与していれば、何かぼろを出すかもしれんな。当たってみてくれ」

    わかりましたと答え、草薙は岸谷と共に間宮の前を離れた。

    「おまえさ、思い込みで意見をいっちゃだめだぜ。犯人たちはそれを利用しようとしているのかもしれないんだからな」草薙は後輩刑事にいった。

    「どういうことですか」

    「工藤と花岡靖子は以前から深い仲だったけど、それを隠し続けていた、ということもありうるだろ。富樫殺しでは、それを利用したのかもしれない。関係を誰にも知られていない人間となれば、共犯者にはうってつけだからな」

    「もしそうなら、今もまだ関係を隠し続けるんじゃないでしょうか」

    「そうとはかぎらない。男女の関係なんて、いずれはばれるものだからな、どうせならこの機会に再会したふりをしたほうがいい、と考えたのかもしれない」

    岸谷は釈然としない顔つきのままで頷いた。

    江戸川署を出ると、草薙は岸谷と共に自分の車に乗り込んだ。

    「鑑識の話だと、凶器に使われたのは電気コードである可能性が高いということでしたよね。正式名称は袋打ちコード」シートベルトを締めながら岸谷がいった。

    「ああ、電熱器具によく使用されているんだろ。電気炬燵とか」

    「コードの表面に綿糸が編み込んであって、その布目が絞殺痕に残っていたそうです」

    「それで」

    「花岡さんの部屋の炬燵を見ましたが、袋打ちコードじゃなかったです。丸打ちコードといって、表面はゴムのものでした」

    「ふうん。だから」

    「いえ、それだけのことです」

    「電熱器具なんて、炬燵以外にもいろいろとあるだろ。それに凶器に使われたのが、ふだん身の回りにあるものだとはかぎらない。そのへんに落ちていた電気コードを拾ったのかもしれないしな」

    「はあ」岸谷は浮かない声を出した。

    草薙は昨日岸谷と共に、ずっと花岡靖子を見張っていたのだった。主な目的は、彼女の共犯者となりうる人間がいるかどうかを確かめることだった。

    だから彼女が閉店後に一人の男とタクシーに乗った時には、ある予感を持って尾行を開始した。

    汐留のレストランに二人が入るのを確かめた後も、辛抱強く出てくるのを待った。

    食事を終えた二人は、再びタクシーに乗った。着いたところは靖子のアパートだった。男が降りる気配はなかった。草薙は靖子に対する聞き込みは岸谷に任せ、タクシーを追った。尾行が気づかれている気配はなかった。

    男は大崎のマンションに住んでいた。工藤邦明という姓名までは確認している。

    実際のところ、今度の犯行は女一人の手では無理だろう、と草薙は考えていた。もし花岡靖子が事件に関与しているなら、やはり男の協力者――もしかするとそちらが主犯と表現すべきかもしれないが、そういう人物がいるとしか思えなかった。

    工藤こそが共犯者なのか。しかしあんなふうに岸谷を叱っておきながら、草薙自身がその考えに手応えを感じていなかった。まるで見当違いな方向に走っている感覚があった。

    草薙の頭には、全く別のことが引っかかっていた。昨日、べんてん亭のそばで張り込んでいた時に見た、思いもよらない人物のことだ。

    湯川学が、花岡靖子の隣に住む数学教師と現れたのだった。

    10

    午後六時を少し過ぎた頃、マンションの地下駐車場に緑色のベンツが入っていった。それが工藤邦明の車であることは、星間、彼の会社に行った時に確認してあった。マンションの向かい側にある喫茶店から見張っていた草薙は、二杯分のコーヒー代を用意しながら席を立った。二杯目のコーヒーは、一口啜っただけだった。

    道路を走って横切り、地下駐車場に駆け込んでいった。マンションには一階と地階に入り口がある。どちらもオートロックシステムになっていて、駐車場利用者は、まず間違いなく地階の入り口を利用する。草薙は、できれば工藤が建物に入る前に捕まえたかった。インターホンで名乗ってから部屋に向かうのでは、相手にいろいろと考える時間を与えてしまうからだ。

    幸い、草薙のほうが先に入り口に到着していたようだ。彼が壁に手をついて息を整えていると、スーツ姿の工藤が書類鞄を抱えて現れた。

    工藤がキーを取り出して、オートロックの鍵穴に差し込もうとする時、草薙は背後から声をかけた。「工藤さんですね」

    工藤はぎくりとしたように背筋を伸ばし、差し込みかけていたキーを引いた。振り返り、草薙を見た。顔に不審の色が広がっていた。

    「そうですけど」彼の視線が、素早く草薙の全身を舐めた。

    草薙は上着の下から、ほんの少しだけ警察手帳を覗かせた。

    「突然申し訳ありません。警察の者なんです。少し御協力いただけないでしょうか」

    「警察って刑事さんですか」工藤は声を落とし、窺うような目をした。

    草薙は頷いた。

    「そうです。花岡靖子さんのことで、ちょっとお話を伺えればと思いまして」

    靖子の名前を聞いて工藤がどういう反応を示すか、草薙は注視した。驚いたり、意外そうな顔を見せたりしたら、逆に怪しい。工藤は事件のことを知っているはずだからだ。

    だが工藤は顔をしかめた後、何かを合点したように顎を引いた。

    「わかりました。じゃあ、私の部屋に来られますか。それとも、喫茶店かどこかのほうがいいでしょうか」

    「いや、できればお部屋で」

    「いいですよ。散らかっていますが」そういって工藤は、改めてキーを鍵穴に入れた。

    散らかっているといったが、工藤の部屋はむしろ殺風景だった。クローゼットが揃っているからか、余分な家具が殆どない。ソファも二人掛けと一人掛けが一つずつあるだけだ。草薙は二人掛けのほうに座るよう勧められた。

    「お茶か何か」工藤はスーツも脱がずに訊いてきた。

    「いえ、お構いなく。すぐに終わりますから」

    「そうですか」そういいながらも工藤はキッチンに入ると、グラスを二つと、ウーロン茶のペットボトルを両手に持って戻ってきた。

    「失礼ですが、御家族は」草薙は訊いた。

    「妻は昨年亡くなりました。息子が一人いますが、事情があって、私の実家で面倒を見てもらっています」工藤は淡々とした口調で答えた。

    「そうでしたか。じゃあ、今はおひとりで生活を」

    「そういうことになります」工藤は頬を緩め、二つのグラスにウーロン茶を注いだ。ひとつを草薙の前に置いた。「富樫さんのことですか」

    草薙はグラスに伸ばしかけていた手を引っ込めた。相手から切り出してくれたのなら、無駄か時間をかける必要はない。

    「そうです。花岡靖子さんの元の旦那さんが殺された事件についてです」

    「彼女は無関係ですよ」

    「そうですか」

    「だって、別れた相手ですよ。今は何の繋がりもない。殺す理由がないじゃないですか」

    「まあ、我々としても、基本的にはそのように考えているわけですが」

    「どういうことですか」

    「世の中にはいろいろな夫婦がいますから、そういった形式論では片づかないことも多いということです。別れたから明日からは無関係。お互いに干渉し合わない。赤の他人に戻る。それで済めばストーカーなんてものは存在しないわけです。ところが現実はそうじゃない。一方が切りたくても、もう一方がなかなか切れてくれないということは、ざらにあるんです。たとえ離婚届を出した後でもね」

    「彼女は、富樫さんとはずっと会っていないといってましたよ」工藤の目に敵意がこもり始めていた。

    「事件について、花岡さんと話をされたんですか」

    「しました。だって、そのことが気になって会いに行ったんですから」

    花岡靖子の供述と一致するようだ、と草薙は思った。

    「つまり、花岡さんのことを相当気にかけておられた、ということでしょうか。事件が起きる前から」

    草薙の言葉に、工藤は不快そうに眉間に皺を作った。

    「気にかけていた、という意味がよくわかりませんね。私のところに来られたぐらいだから、私と彼女の関係については御存じなわけでしょう かつて彼女が働いていた店の常連だったんですよ私は。彼女の御主人とも、偶然にですが、会ったことがあります。富樫という名前もその時に聞きました。だからああいう事件が起きて、富樫さんの顔写真まで出ていたから、心配になって様子を見に行ったというわけです」

    「常連さんだったということは聞きました。でもそれだけで、そこまでしますかね。工藤さんは社長さんでしょう いろいろとお忙しいんじゃないんですか」草薙は、わざと皮肉を込めた言い方をした。職業柄、こうした口調を使うことがよくある。しかし元来彼は、こんな話し方は好きではなかった。

    草薙のテクニックは効果を示したようだ。工藤は明らかに色をなした。

    「あなたは花岡靖子さんのことを訊きに来られたのじゃなかったのですか。でも私に関する質問ばかりしておられる。私を疑っているのですか」

    草薙は笑みを浮かべ、顔の前で手を振った。

    「そういうわけじゃありません。気分を害されたのなら謝ります。ただ、現在花岡さんが特別親しくしておられるようだから、工藤さんについてもいくつかお尋ねしたかっただけです」

    草薙は穏やかに話したが、工藤が彼を睨む目は緩まなかった。大きく深呼吸すると、ひとつ息をついた。

    「わかりました。いろいろと腹を探られるのは不愉快ですから、はっきりと申し上げておきましょう。私は彼女に気があるわけです。それは恋愛感情です。だから事件のことを知り、彼女に近づくチャンスだと思って会いに行った。いかがですか。このようにいえば納得していただけますか」

    草薙は苦笑した。それは演技でもテクニックでもなかった。

    「まあ、そうむきにならないでください」

    「だって、そういうことを聞きたいわけでしょう」

    「我々としては、花岡靖子さんの人間関係を整理したいだけなんです」

    「それがよくわからない。どうして警察が彼女を疑うのか」工藤は首を捻ってみせた。

    「殺される直前、富樫さんは彼女を探していたんですよ。つまり、最後に彼女に会っていた可能性もあるわけです」このことは工藤に話してもいいだろうと草薙は判断した。

    「だから彼女が富樫さんを殺したと 警察の考えることは、いつも単純ですね」工藤はふっと鼻で息を吐き出し、肩をすくめた。

    「すみません、芸がなくて。もちろん、花岡さんだけを疑っているわけではありません。ただ、今の時点では、彼女を容疑の対象から外すわけにはいかないんです。彼女本人でなくても、彼女の周囲に鍵を握る人物がいる可能性もありますし」

    「彼女の周囲に」工藤は眉をひそめてから、何事かを合点したように首を縦に振り始めた。

    「ははあ、そういうことですか」

    「何でしょうか」

    「あなたは彼女が誰かに頼んで、元夫を殺してもらった、と考えているわけだ。それで私のところに来たんだ。私は殺し屋の第一候補ということですか」

    「そのように決めつけているわけではありませんが」草薙はわざと語尾をぼかした。工藤なりに何か思いついたことがあるならば、それを聞いておこうと思ったのだ。

    「だったら、私のところだけでなく、ほかにも当たらなきゃいけないところはたくさんありますよ。彼女に惚れてた客は大勢いましたからね。何しろ、あれだけの美人だから。ホステス時代だけの話じゃない。米沢夫妻の話によれば、彼女に会いたくて弁当を買いに来る客だっているそうですよ。そういう人たち全員に会ってみたらいかがですか」

    「氏名と連絡先がわかれば、無論、会いに行くつもりです。御存じの方はいますか」

    「いいえ知りません。それに残念ながら、私はそういう告げ口はしない主義です」工藤は手刀を横に振った。「まあしかし、仮に全員に当たったとしても無駄足でしょう。彼女はそんなことを頼んだりする人じゃない。そんな悪女でもなければ馬鹿でもない。もう一つ付け加えれば、私も、好きな人間から頼まれたからといって人殺しをするほど馬鹿じゃない。草薙さんとおっしゃいましたね、わざわざ来ていただいたのですが、どうやら収穫は何もないようですよ」早口でまくしたてた後、彼は立ち上がった。さっさと帰れ、という意味のようだ。

    草薙は腰を上げた。だがメモを取る手はそのままだ。

    「三月十日は、いつものように会社に出ておられましたか」

    工藤は一瞬、虚をつかれたように目を丸くした。次にその目を険しくした。

    「今度はアリバイですか」

    「まあ、そういうことです」

    取り繕つくろう必要はないと草薙は思った。どうせ工藤は腹を立てている。

    「ちょっと待ってください」工藤は書類鞄の中から分厚い手帳を出してきた。それをパラパラしてめくり、吐息をついた。

    「何も書いてないから、たぶんいつもと同じでしょう。六時頃に会社を出たと思います。疑うなら社員に訊いてみてください」

    「会社を出た後は」

    「だから、何も書いてないから、たぶんいつもと同じです。ここへ帰ってきて、適当に何か食って寝たんでしょう。一人だから証人はいません」

    「もう少しよく思い出していただけませんか。こちらとしても、容疑者リストの人数を減らしたいんですよ」

    工藤は露骨にげんなりした顔を作り、もう一度手帳に目を落とした。

    「ああそうか、十日か。ということは、あの日だな」独り言のように呟いた。

    「何か」

    「取引先に出向いた日です。夕方行ってそうだ、焼き鳥を御馳走になったんだった」

    「時間はわかりますか」

    「正確には覚えてないな。九時ぐらいまで飲んでたんじゃなかったかな。その後は真っ直ぐに帰りました。相手はこの人です」工藤は手帳に挟んであった名刺を出してきた。デザイン事務所のようだった。

    「結構です。ありがとうございました」草薙は一礼し、玄関に向かった。

    彼が靴を履いていると、「刑事さん」と工藤が声をかけてきた。

    「いつまで彼女のことを見張っているつもりですか」

    草薙が黙って視線を返すと、彼は敵意をこめた表情で続けた。

    「見張っていたから、私と彼女が一緒にいるところを目撃したわけでしょう そうして、おそらく私のことを尾行した」

    草薙は頭を掻いた。「参りましたね」

    「教えてください。いつまで彼女を追いかけ回すつもりですか」

    草薙はため息をついた。笑顔を作るのはやめて工藤を見つめた。

    「それはもちろん、その必要がなくなるまで、です」

    まだ何かいいたそうにしている工藤に背を向け、お邪魔しました、といって草薙は玄関のドアを開けた。

    マンションを出ると、彼はタクシーを拾った。

    「帝都大学へ」

    運転手が返事をして車を発進させるのを確認してから、草薙は手帳を開いた。自分の走り書きを見ながら工藤とのやりとりを反芻した。アリバイの裏づけを取る必要はある。しかし彼としては結論は出ていた。

    あの男はシロだ。本当のことをいっている――。

    そして、本気で花岡靖子に惚れている。さらに、彼がいったように、花岡靖子に協力しようとする人間がほかにいる可能性は大いにある、と思った。

    帝都大学の正門は閉じられていた。ところどころに照明灯があるので、真っ暗ではなかったが、夜の大学には不気味な空気が籠もっているようだった。草薙は通用門から中に入り、守衛室で来訪の目的を告げてから奥に進んだ。「物理学科第十三研究室の湯川助教授と会うことになっている」と守衛には説明したのだが、じつはアポイントメントは取っていなかった。

    学舎内の廊下はひっそりとしていた。しかし無人でないことは、いくつかのドアの隙間から漏れている室内の明かりでわかった。おそらく何人かの研究者や学生たちが、黙々とそれぞれの研究に没頭しているに違いない。そういえば湯川もしばしば大学に泊まり込んでいるという話を、草薙は以前聞いたことがあった。

    湯川に会いに行こうということは、工藤の部屋に行く前から決めていた。方向が同じだということもあるが、ひとつだけ確認しておきたいことがあったのだ。

    なぜべんてん亭に湯川は現れたのだろうか。大学の同窓である数学教師と一緒だったが、彼と何か関係があるのか。もし事件のことで何か気づいたことがあるのなら、なぜ草薙にいわないのか。それとも、数学教師と懐かしい昔話に花を咲かせたかっただけで、べんてん草に寄ったことには特に意味はないのか。

    だが草薙には、湯川が何の目的もなく、未解決事件の容疑者が働いている店にわざわざ行くとは思えなかった。余程のことがないかぎり、草薙が担当している事件には極力関わらないようにする、というのが湯川のこれまでのスタンスだったからだ。面倒に巻き込まれたくないのではなく、草薙の立場を尊重してくれているからだ。

    第十三研究室のドアには行き先表示板が吊されていた。ゼミの学生や大学院生の名前と並ん