で、湯川の名前もあった。表示板によれば、外出、となっていた。草薙は舌打ちした。外出先からそのまま帰宅するだろうと思ったからだ。

    それでも一応ドアをノックしてみた。表示板によれば、大学院生二人が在室のはずだ。

    どうぞ、太い声で返事があったので、草薙はドアを開いた。見慣れた研究室の奥から、トレーナー姿の眼鏡をかけた若者が現れた。何度か見たことのある大学院生だ。

    「湯川はもう帰ったのかな」

    草薙の質問に、大学院生は申し訳なさそうな顔をした。

    「ええ、ついさっき。携帯電話の番号ならわかりますが」

    「いや、それは知っているから大丈夫。それに、特に用があるわけでもないんだ。近くまで来たから寄っただけで」

    「そうですか」大学院生は表情を緩めた。草薙という刑事が、時々油を売りに来ることは、湯川から聞いて知っているに違いなかった。

    「あいつのことだから、遅くまで研究室にこもっているんじゃないかと思ってね」

    「いつもならそうなんですけど、ここ二、三日は早いですね。特に今日は、どこかに寄るようなことをおっしゃってました」

    「へえ、どこへ」草薙は訊いた。もしや、またあの数学教師に会いに行ったのか。

    だが大学院生の口から出たのは、予期していない地名だった。

    「詳しいことは知りませんけど、篠崎のほうだと思います」

    「篠崎」

    「ええ。訊かれたんです、篠崎駅に行くには、どう行けば一番早いかなって」

    「何しに行くかは聞いてないんだね」

    「はあ。篠崎に何かあるんですかって訊いたんですけど、いやちょっとっていわれただけで」

    「ふうん」

    草薙は大学院生に礼をいって部屋を出た。釈然としない思いが胸に広がっている。湯川は篠崎駅に何の用があるのか。それはいうまでもなく、今度の事件現場の最寄り駅だ。

    大学を出た後、携帯電話を取り出した。しかし湯川の番号をメモリから呼び出したところで解除した。今の段階で詰問するのは得策でないと判断したからだ。湯川が草薙に何の相談もなしに事件と関わろうとしているのならば、何らかの考えがあるからに違いないと思ったからだ。

    だが――。

    俺なりに気になることを調べるのは構わないだろう、と彼は思った。

    追試験の採点の途中で石神はため息をついた。あまりにも出来が悪いからだった。合格させることを前提に作った試験で、期末試験よりもずっと易しくしたつもりだったが、まともな解答が殆どないのだ。どんなに悪い点を取ろうが、結局学校側が進級させてくれることを見越して、生徒たちは真面目に準備していないのだろうと思われた。実際、進級させないことなどまずない。合格点に至らなかった場合でも、何らかの屁理屈をつけて、最後には全員を進級させてしまうのだ。

    それならば最初から数学の成績を進級の条件にしなければいいのに、と石神は思う。数学を本当に理解できるのは、ほんの一握りの人間だけで、高校の数学などという低レベルなものの解法を全員に覚えさせたところで、何の意味もない。この世に数学という難解な学問があるということさえ教えれば、それでいいではないか、というのが彼の考えだった。

    採点を終えたところで時計を見た。午後八時になっていた。

    道場の戸締まりを点検してから、彼は正門に向かった。門を出て、信号のある横断歩道で待っていると、一人の男が近づいてきた。

    「今、お帰りですか」男は愛想笑いを浮かべていた。「アパートにいらっしゃらなかったので、こちらかと」

    見覚えのある顔だった。警視庁の刑事だ。

    「あなたはたしか」

    「お忘れかもしれませんが」

    相手が上着の内側に手を入れるのを制して、石神は頷いた。

    「草薙さんでしょう。覚えています」

    信号が青に変わったので、石神は歩きだした。草薙もついてきた。

    なぜこの刑事が現れたのか――石神は足を動かしながら、頭の中で思考を開始した。二日前に湯川がやってきたが、そのことと関係があるのだろうか。捜査協力を依頼したがっている、という意味のことを湯川はいっていたが、それについては断ったはずだ。

    「湯川学という男を御存じですね」草薙が話しかけてきた。

    「知っています。あなたから私のことを聞いたといって、会いに来てくれました」

    「そのようですね。先生が帝都大学理学部の出身だと知り、ついしゃべってしまったんです。余計なことをしたのでなければいいのですが」

    「いえ、私のほうも懐かしかった」

    「彼とはどんな話を」

    「まあ、昔話が中心ですよ。一度目は、殆どそれだけでした」

    「一度目」草薙は怪訝そうな顔をした。

    「何回かお会いになってるんですか」

    「二回です。二度目は、あなたに頼まれて来たといってましたが」

    「私に」草薙の目が泳いだ。「ええと、彼はどんなふうにいってましたか」

    「私に捜査協力を頼めるかどうか打診してほしいといわれたとかいって」

    「ははあ、捜査協力ですか」草薙は歩きながら額を掻いた。

    様子がおかしい、と石神は直感していた。この刑事は戸惑っているように見える。湯川の話に心当たりがないのかもしれない。

    草薙は苦笑を浮かべた。

    「彼とはいろいろな話をしたので、どの件なのか、ちょっと混乱しています。ええと、どういう捜査協力だといってましたか」

    刑事の問いに石神は思案した。花岡靖子の名前を出すのは躊躇われた。しかしここでとぼけても無駄だ。草薙は湯川に確認をとるだろう。

    花岡靖子の監視役だ、と石神はいった。草薙は目を見開いた。

    「あそうでしたか。ははあ、ああ、なるほど。ええ、たしかに彼にそういうことを話したのは事実です。石神さんに協力してもらえないかという意味のことをね。それで彼が気を利かせて、石神先生に早速話してくれたんでしょう。なるほど、わかりました」

    刑事の台詞は、急遽きゅうきょ取り繕ったもののようにしか石神には聞こえなかった。すると湯川は独断で、あんなことをいいに来たということになる。その目的は何なのか。

    石神は足を止め、草薙のほうに向き直った。

    「そういうことを訊くために、今日はわざわざいらっしゃったんですか」

    「いや、すみません。今のは前置きです。用件は別にありまして」草薙は上着のポケットから数枚の写真を出してきた。

    「この人物を見たことはありませんか。私の隠し撮りなんで、あまりうまく写ってないんですが」

    写真を目にし、石神は一瞬息を呑んだ。

    そこに写っているのは、彼が現在最も気にしている人物だった。名前は知らない。身分も知らない。わかっているのは、靖子が親しくしている、ということだけだ。

    「どうですか」草薙が再び訊いてきた。

    何と答えればいいだろう、と石神は考えた。知らない、といってしまえばそれで済む。だがそれでは、この男に関する情報を引き出すこともできない。

    「見たことがあるような気もしますね」石神は慎重に答えた。「どういう人ですか」

    「どこで見たのか、もう少しよく考えていただけませんか」

    「そういわれても、毎日いろいろな人と会いますからね。名前や職業を教えていただけると、記憶を辿りやすいんですが」

    「クドウという人です。印刷会社を経営しています」

    「クドウさん」

    「ええ。工場の工に、藤と書きます」

    工藤というのか――石神は写真を見つめた。それにしてもなぜ刑事が、あの男について調べているのか。当然、花岡靖子との絡みだろう。つまりこの刑事は、花岡靖子と工藤の間に特殊な繋がりがあると考えているわけか。

    「いかがですか。何か思い出されたことはありますか」

    「うーん、見たことがあるような気もするんですが」石神は首を捻った。「すみません。どうも思い出せない。もしかしたら、誰かと間違えているのかもしれないし」

    「そうですか」草薙は残念そうな顔で写真を懐にしまい、代わりに名刺を出した。

    「もし何か思い出されたら、連絡をいただけますか」

    「わかりました。あの、その方が事件に何か関係があるんですか」

    「それはまだ何とも。それを調べているわけでして」

    「花岡さんに関係している人なんですか」

    「ええ、それはまあ一応」草薙は言葉を濁した。情報を漏らしたくないという姿勢が現れていた。

    「ところで、湯川とべんてん亭に行かれましたよね」

    石神は刑事の顔を見返していた。意外な方向からの質問だったので、咄嗟に言葉が出なかった。

    「一昨日、たまたまお見かけしたんですよ。こちらは仕事中だったので、声をおかけできませんでしたが」

    べんてん亭を見張っていたのだな、と石神は察した。

    「湯川が、弁当を買いたいといったものですから。それで私が案内を」

    「なぜべんてん亭に 弁当なら近くのコンビニでも売っているじゃないですか」

    「さあそれは彼に訊いてください。私は頼まれて連れていっただけですから」

    「湯川は花岡さんや事件について、何かいってませんでしたか」

    「ですから、私に捜査協力の打診を」

    草薙は首を振った。

    「それ以外にです。お聞きになったかもしれませんが、彼はしばしば私の仕事に有効なアドバイスをくれるんです。物理学者として天才ですが、探偵の能力もなかなかのものでしてね。それにいつもの調子で何か推理らしきものを述べたんじゃないかと期待したわけですが」

    草薙の質問に、石神は軽い混乱を覚えた。頻繁に会っているのなら、湯川とこの刑事は情報を交換をしているはずだ。それなのに、なぜ自分にこんなことを訊くのだろう。

    「特に何もいってませんでしたが」石神としては、そういうしかなかった。

    「そうですか。わかりました。お疲れのところ、申し訳ありませんでした」

    草薙は頭を下げ、歩いてきた道を戻っていった。その後ろ姿を見ながら、石神は得体の知れない不安感に包まれていた。

    それは、絶対に完璧だと信じていた数式が、予期せぬ未知数によって徐々に乱れていく時の感覚に似ていた。

    11

    都営新宿線篠崎駅を出たところで、草薙は携帯電話を取り出した。メモリから湯川学の番号を選び、発信ボタンを押した。耳に当て、周囲を見渡す。午後三時という中途半端な時間帯のわりには人が多い。スーパーの前には相変わらず自転車がずらりと並んでいる。

    間もなく回線の繋がる気配があった。呼出音が聞こえるのを草薙は待った。

    だがそれが鳴る前に彼は電話を切っていた。視線の先に目的の人物を捉えたからだった。

    本屋の前のガードレールに腰掛け、湯川がソフトクリームを食べていた。白のパンツに黒のカットソーというスタイルだった。やや小さめのサングラスをかけている。

    草薙は道を渡り、彼の背後から近づいていった。湯川はじっとスーパーの周辺に目を向けているようだ。

    「ガリレオ先生」

    脅かすつもりで声をかけたが、湯川の反応は意外なほど鈍かった。ソフトクリームを舐めながら、スローモーションのようにゆったりとした動きで首を回した。

    「さすがに鼻がきくな。刑事が犬と揶揄やゆされるのもわかる気がする」殆ど表情を変えずにそういった。

    「こんなところで何をしているんだ。おっと、ソフトクリームを食っている、なんていう答えは聞きたくないからな」

    湯川は苦笑した。

    「君こそ何をしている、と訊きたいところだけど、答えは明白だな。僕を探しに来たんだろ。いや、僕が何をしているか探りに来た、というべきかな」

    「そこまでわかっているなら素直に答えろよ。何をしているんだ」

    「君を待っていた」

    「俺を ふざけてるのか」

    「大いに真面目だよ。さっき、研究室に電話してみた。すると、君が訪ねてきたと大学院生が言ってた。君は昨夜も僕を訪ねてきたそうじゃないか。それで、ここで待っていれば君が現れるだろうと予想したわけさ。僕が篠崎に来ているらしいことは、大学院生から聞いて知っているだろうからね」

    湯川のいうとおりだった。帝都大学の研究室に行ったところ、昨日と同様に彼は外出中だと知らされたのだ。行き先が篠崎ではないかと推理したのは、昨夜大学院生から聞いた話が元になっている。

    「俺は、おまえが何のためにこんなところに来ているのかを訊いてるんだ」草薙は少し大きな声を出した。この物理学者のまどろっこしい言い回しには慣れているつもりだが、苛立ちは抑えられなかった。

    「まあ、そう焦るなよ。コーヒーでもどうだ。自動販売機のコーヒーだけど、うちの研究室で飲むインスタントよりはうまいはずだぜ」湯川は立ち上がり、ソフトクリームのコーンを近くのゴミ箱に投げ捨てた。

    スーパーの前にある自販機で缶コーヒーを買うと、湯川はそばの自転車に跨って、それを飲み始めた。

    草薙は立ったまま缶コーヒーの蓋を開け、周囲を見回した。

    「他人の自転車に勝手に乗るなよ」

    「大丈夫だ。これの持ち主は当分現れない」

    「どうしてそんなことがわかる」

    「持ち主はこれをここに置いた後、地下鉄の駅に入っていった。一つ隣の駅まで行くだけにしても、用を済ませてから帰ってくるまでに、三十分ぐらいはかかるだろう」

    草薙はコーヒーを一口飲み、げんなりした顔を作った。

    「あんなところでソフトクリームを食いながら、そんなことを眺めてたのか」

    「人間観察は僕の趣味でね。なかなか面白い」

    「能書きはいいから、早く説明してくれ。どうしてこんなところにいる 例の殺人事件とは無関係だなんていう、見え透いた嘘はつくなよ」

    すると湯川は身体を捻り、跨っている自転車の後輪カバーのあたりを見た。

    「最近じゃ、自転車に名前を書いている人は減ったな。他人に身元を知られたら危険だという配慮からだろう。昔は、必ずといっていいほど名前を書いたものだけど、時代が変われば習慣も変わる」

    「自転車が気になるようだな。たしか、以前もそんなことをいっていた」

    先程からの言動で、湯川が何を意識しているのか、草薙にもわかってきた。

    湯川は頷いた。

    「君は以前、自転車が捨てられていたことについて、偽装工作である可能性は低いという意味のことをいってたな」

    「偽装工作としては意味がないといったんだ。わざと自転車に被害者の指紋を付けておくなら、死体の指紋を焼く必要はないだろ。実際、自転車の指紋から身元が割れたんだし」

    「そこなんだがね、もし自転車に指紋が付いてなかったとしたらどうだろう。君たちは死体の身元を突き止めることはできなかっただろうか」

    湯川の質問に、草薙は十秒ほど黙った。考えたことのない問題だった。

    いや、と彼はいった。

    「結果的に、レンタルルームから行方をくらました男と指紋が一致したので身元がわかったわけだけど、指紋がなくても問題はなかっただろう。dna鑑定を行ったことは、前にも話したよな」

    「聞いている。つまり、死体の指紋を焼いたこと自体、結局は無意味だったわけだ。ところが、もし犯人がそこまで計算に入れていたとしたらどうだろう」

    「無駄になることを承知で指紋を焼いたというのか」

    「もちろん犯人にとって意味はあった。ただしそれは死体の身元を隠すためではなかった。そばに放置された自転車が偽装工作でないと思わせるための工夫だった、とは考えられないだろうか」

    意表をついた意見に、草薙は一瞬絶句した。

    「じのところあれはやはり偽装工作だった、といいたいわけか」

    「ただし、何を狙った偽装かは不明だ」湯川は跨っていた自転車から降りた。「被害者が自力でその自転車を運転して現場まで行った、と見せかけたかったのはたしかだろう。ではそのように偽装する意味は何か」

    「実際には被害者は自力では動けなかったが、それをごまかすという意味があった」草薙はいった。「すでに殺されていて、死体となって運ばれたということだ。うちの班長なんかは、その説を取っている」

    「君はその説に反対だったな。最有力容疑者の花岡靖子が運転免許を持ってないから、というのが理由だったと思うが」

    「共犯者がいるとすれば話は別だ」草薙は答えた。

    「まあそれはいい。そのことより僕が問題にしたいのは、自転車が盗まれた時刻のほうなんだ。午前十一時から午後十時の間と判明しているようだが、それを聞いて疑問に思ったんだ。よくまあそんなふうに特定できたものだな、とね」

    「そんなこといっても、持ち主がそういってるんだから仕方がない。別に難しい話じゃないだろ」

    「そこなんだ」湯川はコーヒーの缶を草薙のほうに突き出した。「なぜそうあっさりと持ち主が見つかったんだ」

    「それまた難しい話じゃない。盗難届が出されていたんだ。だから照会すれば済む問題だ」

    草薙が答えると、湯川は低く唸った。厳しい目をしているのが、サングラス越しでもわかった

    「何だ。今度は何が気に入らない」