た。
「もし今も見張られているのだとしたら、こんなふうにあたしと会っているところを見られたら、また何か疑われるんじゃないかな」
「平気だよ。今もいったように、僕は堂々としていたい。こそこそ隠れて会うほうが、よっぽど怪しまれる。そもそも、人目を気にする仲ではないはずだぜ」工藤は大胆さを表現するように、ゆったりとソファにもたれ、コーヒーカップを傾けた。
靖子もティーカップに指をかけた。
「そういってくれるのはうれしいけど、工藤さんに迷惑がかかっているのだとしたら、本当に申し訳ない。やっぱり、しばらくは会わないほうがいいのかなって思うんだけど」
「君のことだから、そんなふうにいうと思ったよ」工藤はカップを置き、身を乗り出してきた。「だからこそ、今日わざわざ来てもらったんだ。僕のところに刑事が来たことはいずれ君の耳にも入るだろうけど、その時になって、君が変に気を遣ってはいけないと思ってね。はっきりいっておくけど、僕のことは全然気にしなくていい。アリバイを訊かれたといったけど、幸い証明できそうな人もいる。いずれは刑事たちだって、僕には興味を示さなくなるよ」
「それならいいけど」
「それより心配なのは、やっぱり君のことなんだ」工藤はいった。「僕が共犯でないことはいずれわかるだろう。でも刑事たちは、君に対する疑惑は捨てていない。これからも何かとうるさくつきまとってくるのかと思うと憂鬱になる」
「それは仕方ない。だって、富樫があたしのことを探してたのは事実みたいだから」
「全く、あの男も、何を思って今さら君にまとわりつこうとしたのか。死んでもまだ君を苦しめるなんてなあ」工藤は渋面を作った。その後で改めて靖子を見た。「事件について、本当に君は何も関係していないよね。これは君を疑っているという意味じゃなくて、たとえわずかでも富樫と繋がりがあったのなら、僕にだけでも打ち明けておいてもらいたいんだけど」
靖子は工藤の端正な顔を見返した。彼が突然会いたいといってきた真意はここにあるのだなと思った。彼女に対する疑いを、全く抱いていないわけではないのだ。
靖子は微笑を作った。
「大丈夫よ。あたし、何の関係もないから」
「うん、そうとわかっていても、君の口からはっきりいってもらえると安心する」工藤は頷いてから腕時計を見た。「せっかくだから、食事でもどうだい うまい焼鳥屋を知っているんだけど」
「ごめんなさい。今夜は美里に何もいってないから」
「そうか。じゃあ、無理に誘うわけにはいかないな」工藤は伝票を手にして、立ち上がった。
「行こうか」
彼が支払いをしている間、靖子はもう一度ざっとあたりを見回した。刑事らしさ人間は見当たらない。
工藤には悪いが、彼に共犯の疑いがかかっている間は大丈夫だろう、と彼女は思った。つまり警察が真相とは程遠いところを調べていることになるからだ。
とはいえ、工藤との仲をこのまま進展させていいものかどうか、彼女は迷っていた。もっと親密になりたいという希望はある。だがそれを実現した場合、何か大きな破綻を呼ぶことにならないだろうかと不安だった。石神の無表情な顔が浮かんだ。
「送っていくよ」勘定を済ませた工藤がいった。
「今日はいいです。電車で帰るから」
「いいよ、送っていくよ」
「本当にいいの。買い物に寄りたいし」
「ふうん」釈然としない様子だったが、工藤は最後には笑みを見せた。「じゃあ、今日はここで。また電話するよ」
「ごちそうさま」靖子はそういって踵を返した。
品川駅に向かう横断歩道を渡っている時に、携帯電話が鳴りだした。彼女は歩きながらバッグを開けた。着信表示を見ると、べんてん亭の小代子からだった。
「はい」
「あっ、靖子。小代子だけど、今大丈夫」声に妙な緊迫感があった。
「平気だけど、どうかした」
「さっきあんたが帰った後、また刑事が来たのよ。それで変なことを訊いていったものだから、一応耳に入れておこうと思って」
携帯電話を握ったまま、靖子は目を閉じた。また刑事の話だ。彼等は蜘蛛の糸のように、彼女の周りにからみついてくる。
「変なことって、どういうこと」不安を胸に靖子は訊いた。
「それがねえ、あの人のことなのよ。あの高校の先生。石神っていったっけ」
小代子の言葉に、靖子は電話を落としそうになった。
「あの人がどうかしたの」声が震えた。
「刑事が訊いてきたのは、あんたに会うのが目的で弁当を買いに来てる客がいるそうだけど、どこの誰だってことだったのよ。どうも、工藤さんから聞いてきたらしいのよね」
「工藤さん」
彼とどう繋がるのか、まるでわからなかった。
「そういえば以前あたし、工藤さんに話したことがあるのよね。靖子ちゃんに会いたくて、毎朝通ってくる客もいるって。工藤さん、そのことを刑事に話したみたい」
そういうことかと靖子は合点した。工藤のところへ行った刑事が、その確認をするためにべんてん亭を訪れたということだ。
「それで小代子さん、何と答えたの」
「隠すのも変だと思ったから正直に答えたわよ。靖子さんの隣に住んでいる学校の先生だって。でも、靖子目当てってことは、あたしたちが勝手にいっていることだから、本当のところはどうかわからないって釘は刺しておいたからね」
口の中が渇くのを靖子は感じた。警察はついに石神に目をつけたのだ。その根拠は工藤の話だけだろうか。それともほかに何か理由があって、彼に着目したのだろうか。
「もしもし靖子」小代子が呼びかけてきた。
「あ、はい」
「そんなふうに話したんだけど、それで大丈夫だったかな。なんか都合の悪いことあったかな」
都合が悪い、とは口が裂けてもいえない。
「うん、別に問題ないと思うよ。あの先生とは特に何の関係もないし」
「そうだよね。とりあえず、そのことだけ話しておこうと思って」
「わかった。わざわざありがとう」
靖子は電話を切った。胃がもたれるような感覚があった。軽い吐き気がする。
その感覚はアパートに帰るまで続いていた。途中、スーパーで買い物をしたのだが、何を選んだのか、自分でもよく覚えていなかった。
隣の部屋のドアが開閉される音がした時、石神はパソコンの前にいた。画面上には三枚の写真が映し出されていた。工藤を撮影した二枚と、靖子がホテルに入っていくところを掃った一枚だ。出来れば二人が一緒にいるところを撮りたかったが、今度こそ工藤に見つかりそうだったし、万一靖子に気づかれたりしたら面倒だと思い、自重しておいたのだ。
石神は最悪のケースを想定していた。その場合にはこれらの写真が役立つはずだが、無論、そのようなことは何としてでも避けたいと彼は思った。
石神は置き時計をちらりと見てから立ち上がった。午後八時近くになっていた。どうやら靖子が工藤と会っていたのは、さほど長い時間ではなかったようだ。そのことで安堵する気持ちがあることを、彼は自覚していた。
彼はテレホンカードをポケットに入れ、部屋を出た。いつものように夜道を歩いていく。自分を見張っている気配がないか、慎重に確認した。
草薙という刑事のことを思い出していた。彼の用件は、じつに奇妙だった。花岡靖子に関する質問をしながらも、湯川学について尋ねるのが主目的だったような気がした。彼等は一体どういうやりとりをしているのだろう。自分が疑われているのかどうか判断がつかず、石神としては次の手を打ちにくかった。
いつもの公衆電話で靖子の携帯電話にかけた。三度目の呼出音で、彼女は電話に出た。
「私です」石神はいった。「今、大丈夫ですか」
「はい」
「今日は何か変わったことがありましたか」
工藤と会って、どういう話をしたのか訊きたかったが、尋ねる言葉が見つからなかった。二人が会ったことを石神が知っていること自体、不自然なのだ。
「あの、じつは」そういったきり、彼女は躊躇ったように黙り込んだ。
「何ですか。何かあったんですか」工藤から、何かとんでもないことでも聞かされたのだろうか、と石神は思った。
「お店にべんてん亭に刑事が来たそうなんです。それで、あの、あなたのことを訊いていったそうです」
「私のことを どんなふうに」石神は唾を飲み込んだ。
「それが、ちょっと話がわかりにくいかもしれないんですけど、じつはうちの店の人が、前々から石神さんのことを噂してましてあの、石神さんはお怒りになるかもしれませんけど」
まどろっこしいな、と石神は苛立った。この人も数学は苦手に違いないと思った。
「怒りませんから、単刀直入におっしゃってください。どういう噂をされてたんですか」どうせ外見を馬鹿にしたような噂だろうと思いながら石神は訊いた。
「あのう、あたしはそんなことはないといってるんですけど、店の人があなたはあたしに会いたくて弁当を買いに来ているんだ、というようなことを」
「え」石神は一瞬、頭の中が白くなった。
「ごめんなさい。面白がって、冗談で、そんなことをいってるだけなんです。悪気はなくて、別に、実際にそうだとか本気で思っているわけじゃなくて」靖子は懸命に取り繕おうとしている。だがその言葉の半分も彼の耳には届いていなかった。
そんなふうに思われていた、彼女以外の第三者から――。
それは誤解ではなかった。事実、彼は靖子の顔を見たくて、毎朝のように弁当を買いに行っているのだ。そんな自分の思いが彼女に伝わることは期待しなかった、といえば嘘になる。だが、他の人間にまでそんなふうに見られていたのかと思うと、全身が熱くなった。自分のような醜い男が、彼女のような美しい女に恋い焦がれる様子を見て、第三者たちは嘲笑していたに違いない。
「あの、怒っておられます」靖子が尋ねてきた。
石神はあわてて咳払いをした。
「いえそれで、刑事はどのようなことを」
「ですから、その噂を聞きつけて、その客というのはどういう人か、店の者に尋ねたらしいです。店の者は、あなたの名前を出してしまったそうです」
「なるほど」石神は依然として体温が上昇したままだった。「刑事は誰からその時を聞いたんでしょうか」
「それはちょっとわかりませんけど」
「刑事が訊いていったのは、そのことだけですか」
「そうらしいです」
受話器を握ったまま、石神は頷いた。狼狽している場合ではなかった。どういう経緯でかはわからないが、刑事が彼に照準を合わせつつあるのは紛れもない事実だ。ならば、対応を考える必要がある。
「そこにお嬢さんはいますか」彼は訊いた。
「美里ですか。いますけど」
「ちょっと代わっていただけますか」
「あ、はい」
石神は目を閉じた。草薙刑事たちはどのようなことを企み、行動しているのか、次に何をしてくるか――精神を集中して彼は思考した。だがその途中で湯川学の顔が浮かんだ時、彼は少し動揺した。あの物理学者は何を考えているのか。
はい、という若い娘の声が耳に届いた。美里に代わったようだ。
石神です、と断ってから彼は続けた。
「十二日に映画の話をした相手はミカちゃんだったね」
「はい。そのことは刑事さんに話しましたけど」
「うん、それは前に聞いたよ。で、もう一人の友達のことだけど、ハルカちゃんといったかな」
「そうです。クマオカハルカちゃんです」
「その子とは、あれから映画の話はしたかい」
「いえ、あの時だけだと思います。もしかしたら、ちょっとしたかもしれないけど」
「彼女のことは刑事には話してないね」
「話してません。ミカのことだけです。だって、まだハルカのことは話さないほうがいいって石神さんが」
「うん、そうだったね。でも、いよいよ話してもらうことになった」
石神は周囲を気にしながら、花岡美里に細々と指示を与え始めた。
テニスコートの横の空き地から、灰色の煙が立ち上っていた。近づいてみると、白衣姿の湯川が袖まくりをして、一斗缶の中を棒でつついている。煙はその中から出ているようだった。
土を踏む足音で気づいたらしく、湯川が振り向いた。
「君はまるで僕のストーカーのようだな」
「怪しい人間に対しては、刑事はストーカーになるんだよ」
「へええ、僕が怪しいというわけか」湯川は面白そうに目を細めた。「久々に君にしては大胆な発想が生まれたようだな。そういう柔軟さがあれば、もっと出世するだろうさ」
「どうして俺がおまえのことを怪しいと思うのか、その理由を訊かないのか」
「訊く必要がない。いつの世も科学者というのは、人から怪しく思われる存在だからね」なおも一斗缶の中をつついている。
「何を燃やしてるんだ」
「大したものじゃない。不要になったレポートとか資料だ。シュレッダーは信用できないからね」湯川はそばに置いてあったバケツを持ち、中の水を缶に注いだ。しゆーつという音と共に、さらに濃く白い煙が上がった。
「おまえに話がある。刑事として質問させてもらう」
「やけに力んでるな」一斗缶の中の火が消えたことを確認したらしく、湯川はバケツを提げたまま歩きだした。
彼の後を草薙は追った。
「昨日、あれからべんてん亭に行った。あの店でじつに興味深い話を聞いた。知りたくないか」
「別に」
「じゃぁ勝手にしゃべらせてもらう。おまえの親友の石神は、花岡靖子に惚れている」
大股で歩いていた湯川の足が止まった。振り返った彼の眼光は鋭くなっていた。
「弁当屋の人間がそういっているのか」
「まあね。おまえと話しているうちにぴんとくることがあって、べんてん亭で確認を取ったというわけだ。論理も大事かもしれないが、直感も刑事には大きな武器だ」
「それで」湯川が向き直った。「彼が花岡靖子に惚れているとして、そのことが君たちの捜査にどういう影響を与えるのかな」
「この期ごに及んで、そんなふうにとぼけるなよ。おまえだって、どういうきっかけで勘づいたのかは知らんが、石神が花岡靖子の共犯者じゃないかと疑っているからこそ、俺に隠れてこそこそと動き回っているんだろうが」
「こそこそした覚えはないがね」
「とにかく、俺のほうには石神を疑う理由が見つかった。これからは奴を徹底的にマークする。そこで、だ。昨日は袂を分かつことになってしまったが、和平条約を結ばないか。つまり、こちらから情報を提供する代わりに、おまえが掴んでいることも教えてほしい。どうだ。悪くない提案だろ」
「君は僕を買い被っている。僕はまだ何も掴んじゃいない。ただ想像を巡らせているだけだ」
「だったら、その想像を聞かせてほしい」草薙は親友の目をじっと覗き込んだ。
湯川は目をそらし、そのまま歩きだした。「とりあえず研究室に行こう」
第十三研究室の奇妙な焦げ跡のついた机の前に草薙は座った。湯川が二つのマグカップをその上に置いた。相変わらず、どちらのカップも奇麗とはいいがたかった。
「石神が共犯だとして、彼の役割は一体どういうものだろう」早速湯川が質問してきた。
「俺から話すのか」
「和平は君から提案してきたんだぜ」湯川は椅子にかけ、悠然とインスタントコーヒーを啜った。
「まあいいだろう。まだうちのボスには石神のことを話してないから、これは全部俺の推理だがもし殺害現場が別のところだったとしたら、死体を運んだのは石神だ」
「ほう、君は死体運搬説には否定的だったじゃないか」
「共犯者がいるなら話は別だといったぜ。だけど主犯、つまり実際に手を下したのは花岡靖子だ。もしかしたら石神も手伝ったかもしれないが、彼女がその場にいて、犯行に加わったのは間違いない」
「断定的だな」
「実際に手を下したのも、死体を処理したのも石神だとすると、それはもはや共犯じゃない。奴が主犯、さらにいうと奴の単独犯ということになる。いくら惚れているとはいえ、そこまでやるとは思えない。靖子に裏切られたらおしまいだからな。彼女にも、何らかのリスクは負わせたはずだ」
「じゃあ、殺したのは石神一人で、死体の処理を二人でやったとは考えられないか」
「可能性がゼロとはいわないが、低いと思う。花岡靖子の映画館でのアリバイは曖昧だが、その後のアリバイは比較的しっかりしている。たぶん時間を決めて行動したんだろう。となると、どれだけの時間を要するかわからない死体処理に彼女が加わったとは考えにくい」
「花岡靖子のアリバイが確定していないのは」
「映画を見ていたという七時から九時十分の間だ。その後に入ったラーメン屋とカラオケボックスでは確認がとれた。ただ、一旦映画館に入ったのは間違いないと思う。映画館で保管されていたチケットの半券の中から、花岡母娘の指紋のついたもの